vol.48 人間椅子
デビュー30周年! 今が絶頂期!
売れてない時代を経験 してるから、もう怖いもの なんてないんですよ(笑)。
デビュー30周年
デビュー30周年にして、ライブの動員やアルバムの売り上げが伸びています。今の状況を10年前に想像できましたか?
和嶋慎治(g、vo) 豊洲PITクラスのライブ会場を満杯にできるとは全然想像してなかったですけど、10年前ぐらいから上向きになっているなという気はしていたので、当時からこの先も活動は続けていけるだろうなと思っていましたよ。きっと、そういう波ってあるんですよ。いったん減り始めるとどんどん減るんですけど、カーブが上向きになれば急に下がることはない。
10年前に動員が伸び始めた理由をどう分析していますか?
和嶋 動画サイトが大きかったと思います。当時、メディアの取材を受けることは全然なかったんですけど、ニコ動みたいなサイトを通じて昔のファンの人が応援してくれている感じがあったので、それがきっかけになって僕たちのことを知らなかった人も来るようになったんじゃないのかな。
鈴木研一(b、vo) それまで僕らは『BURRN!』のライブ告知でのみ情報を伝えているような状況だったので、その違いも大きいと思います。雑誌とネットじゃ全然違うなと思いますね。
ナカジマノブ(ds、vo) この3人でしっかりバンドを続けていけばきっと認められていくだろうなっていう気持ちはありました。僕が15年前に加入する前から2人が築き上げてきた人間椅子の歴史と信念みたいなものが、あとから入った僕にそういう形で伝わってきたんだと思います。
1987年のバンド結成時は、“人を戦慄させること”がやりたかったそうですね。
和嶋 僕たちのルーツは、ブラック・サバスみたいな70年代ブリティッシュハードロックとかプログレだったんですよ。ああいうロックに日本語を乗せてやりたかった。
イカ天でブレイク
そして、バンドを結成してすぐに『三宅裕司のいかすバンド天国』(通称イカ天)の放送が始まりました。
和嶋 僕たちでも出られそうかなと(笑)。イカ天が始まる前からライブハウスに出てたんですけど、お客さんがほぼ友達だけだったので、知らない人にも観てもらいたいっていうことでイカ天に出てみた。
ノブさんは当時、GENのメンバーとしてイカ天キングになっていました。当然、人間椅子の存在を知っていたと思うんですが、当時の彼らをどう見ていましたか?
ナカジマ 人間椅子が出た回はリアルタイムでは観ていなくて、その後に初めて映像を目にして「ブラック・サバスだな!」って。当時のバンドは日本語を大事にしてがんばるバンドと、洋楽っぽく英語を取り入れるバンドに二分されていたんです。GENは日本語を大事にしてがんばっていたので、“同じように日本語を大事にしてがんばってるバンドだ!”って思ってましたね。
イカ天に出たあと、どういう状況になったんですか?
和嶋 次のライブから急にお客さんが増えて、テレビってすげえ!と思いました。
自分たちではコントロールできないぐらいとてつもない現象だったと思います。
和嶋 ああ、できなかったですね。我々みたいにライブ経験が浅いバンドがイカ天に出ちゃうと、そのまま番組とセットになっちゃうんですよね。マネージメントをしてくれていたイカ天のバンドストック事務局の決めるがままに活動していく感じでした。すごい数の学園祭ライブを切っていただいて、めちゃめちゃ忙しくなりました。
そこに自分たちの意思はほとんど入らなかったと。
和嶋 CDデビューしたかったから、その流れに乗ればいいと思ってました。
鈴木 リスクもなくライブができるっていうのも良かったし、ライブができてうれしいっていう気持ちだけだったんだよね。
和嶋 バンドストック事務局がいろいろな事務所にバンドを紹介していて、我々も事務所を作っていただいてデビューすることができたんです。
相当売れない時期もあった。だけど、卑屈には なってないんですよ。“そりゃあ僕らの曲はウケないよ” って、ある意味誇りを持ってやってました。
浮き沈みの20年
バンドが初期の形のままで活動を続けてこられたのは最初の所属レコード会社のメルダックのおかげだったそうですね。
和嶋 メルダックを選んだのは正解だったと思います。デビュー前にいくつかのレコード会社と面接みたいなことをしたんですけど、THE BLUE HEARTSでドカンといったメルダックはバンドの意見を尊重してくれるような若い会社だったんで、僕らも好きなようにやらせてもらうことができましたね。
当時のディレクターは、レコーディングのたびに鉛筆を投げるような厳しい方だったと聞いています。
和嶋 しごかれましたね。我々も甘い姿勢でレコーディングにのぞんでたし。特に歌がダメで。あとは歌詞が間に合わなかったり…。それでも演奏はちゃんとしてたと思いますよ。
鈴木 ファースト(『人間失格』1990年)はすでにあった曲を録ったし、しかもたくさんあるなかから“これはいいだろう”という曲を選んだからいい出来なんですよ。でも、バンドを続けていくうえでのポイントは、2枚目以降をどうするかじゃないですか。そこでプレッシャーがのしかかってきて。でも、そこでがんばって名曲を作ったからのちにつながった気がしますね。
その後、すぐに売り上げが低迷してしまい、インディーズへ移ったかと思えば、またポニーキャニオンから声がかかったり。
和嶋 そのあとはテイチクに行って、またメルダックに戻って。
レコード会社が頻繁に変わることでバンドの活動に影響はなかったんですか?
和嶋 我々の場合、音楽的な部分は何も変わりませんでした。特にインディーズの頃は本当に何も制約がなかったので、何やってもいいんだ!と思ってやってましたね。通常、レコード会社を移籍するのってもっと違う売り方をしたいからだと思うんですけど、我々の場合はCDを出してくれるところならどこでも良かったので、そこはちょっと違いますね。
鈴木 出してくれるなら制作費はどんなに安くてもいいっていう気持ちだったから続けられたんだと思います。今はだんだん予算が上がってきてるけど、最初はすごく安かった記憶がある。
音源を作って、アルバムを出して、ライブができればそれで十分だった。
鈴木 みんなに自分たちの音楽を聴かせたかった。
でもしばらくの間、活動は横ばいだったそうですね。
和嶋 20代後半から40歳ぐらいまではずっと横ばいでしたね。横ばいっていうより、相当売れない時期もあったはず。ただ、そんなに苦しいとは思ってなかったですよ。CDを出せてたから。
鈴木 しかも、東京のライブにはお客さんがたくさん来てくれてたんですよね。
和嶋 僕らはCDのミリオンセラー時代が一番低迷してたんですよ。メジャーレーベルからCDを出してはいるけど、Mr.Childrenみたいなバンドとは違って、我々は地下活動をしている感覚でしたね。だけど、卑屈にはなってないんですよ。“そりゃあ僕らの曲はウケないよ”って、ある意味誇りを持ってやってました。
しばらくはバイトをしながらの活動が続きました。
鈴木 バイトで食えていればバンドも続けられると思ってましたね。
和嶋 バイトをしたのは本当に良かったと思います。デビューがあまりに順風満帆だったし、苦労してない人間が作るものだから人の心を打たないのかもなと思っていて。でも、10年以上アルバイトを続けるなかで、人間ってこうするとダメなんだな、こういう気持ちの持ち方をすると好かれるんだなっていうことがやっとわかるようになったんです。そういう下積みをすることでやっと一般的な人の心がわかって、曲を作るうえでの自信にもつながったんですよ。
それまで我々のことを知らなかったような若い人たちも “イケてる”って思ってくれたわけですよ。 “ただのおっさんのバンドじゃない!”って。
セルフマネージメント
そして、2004年にノブさんが加入。
和嶋 その頃は、またメルダックでCDを出し始めて4枚目ぐらいで、売れてなくてもCDを出せるってことが安心にもつながってたし、一定数のファンの方もついてきてくれてましたね。
ナカジマ 人間椅子はサウンドや詞に信念があるんですよね。自分は加入するまで自分のやってるバンドについてそこまで考えたことがなかったんですよ。ドラムが好きで、ライブが好きで、ただ好きなことをがむしゃらにやってただけ。人間椅子に入って初めて、僕もそういうことについて真剣に考えてみたって感じですね。でも、僕が入ったあとにやったO-WESTでのワンマンが人間椅子史上で一番人が入らなくて。
でも、そこからまた盛り返していくんですよね。
ナカジマ ちょっとずつですけどお客さんが増えて、会場も大きくすることができました。レコード会社はあったけど、事務所はなかったので、3人で全部作ってるっていう感覚がありましたね。全部3人で相談して、3人で決めてた。そうやってやれることを少しずつ広げていきました。
ノブさんは以前のバンドでもマネージメント的な動きをしていたそうですけど、人間椅子でもそうなんですか?
ナカジマ 僕が入ったときは研ちゃん(鈴木)がライブハウスを手配して、和嶋くんはファンクラブを先導したりいろいろやっていたので、僕は何もやってなかったんです。だけど、曲作りと何かのブッキングを並行してやらなきゃいけなくなったときがあって、そこで“じゃあ、面倒なことは全部俺がやるから、カッコいい曲を作ろうよ!”って。僕はいろいろなライブハウスとかイベンターを知ってたから、少しずつライブの窓口になっていきましたね。
分業がしっかりされるようになったと。
鈴木 自分がブッキングしてたときは、とにかく楽に移動できればいいっていうことしか考えないで空いてるライブハウスに電話してたけど、ノブはうまい具合に人が入るようなライブハウスを見つけたり算段してくれたから、ノブはブッキングに向いてるんだなって。
和嶋 ノブはいろんなところに知り合いがいるので助かってますね。前のドラムがやめた原因に、自分たちで全部やることが負担になったっていうところもあったので。
インタビューの冒頭、動員が伸びた理由に“波”をあげていましたが、ブッキングなどのマネージメントがうまくまわるようになったからということもないですか?
和嶋 自分らでちゃんとまわせるようになったことで、ライブも気持ち良くやれるようになったっていうのはあるのかな。
ナカジマ お金のことも全部わかってるし、本当にシンプルなんですよね。不透明な部分がないっていうのはいいですよ。
3年に2枚は必ずアルバムを作ろう、 常に前作よりもいいものを作ろうと思って やってることが、ようやく結果として現れたのかな。
再ブレイク
精神的な負担が軽減されたことが、ライブや楽曲にいい影響を与えたのかもしれないですね。そして、“OZZFEST JAPAN 2013”への出演が人間椅子の存在感を一気に高めることになりました。
和嶋 あの前後で変わりましたよ。嫌らしい言い方ですけど、ちょっとハクがついたというか(笑)。でもそういうのって大事なんじゃないですかね。それに、古くから応援してくれてた人たちも喜んでくれたと思うし、それまで我々のことを知らなかったような若い人たちも“イケてる”って思ってくれたわけですよ。“ただのおっさんのバンドじゃない!”って。あれ以降、急にお客さんが増えたね。
ももいろクローバーZとの仕事(「黒い週末」でのギター参加など)も大きいですね。
和嶋それがきっかけでライブに来た人も結構いました。そういう人らは当然、イカ天なんか知らないわけですから、そこでやっと“イカ天バンド”を脱却できたと思いましたよ。今はもう、誰も我々のことを“イカ天バンド”とは呼ばないですから。
そして、2013年リリースの『萬燈籠』から徳間ジャパンの北さんが宣伝担当になりました。これも今の人間椅子を語るうえで欠かせないポイントですよね。
和嶋 そのあたりから急に露出が増えたからありがたいですよ。そうするとお客さんも増えるんです。
YouTubeやSNSでの展開も増えました。
和嶋 最初は誰もピンときてなかったんですけどね。
未知のものだし、怖くなかったですか?
和嶋 いや、売れてない時代を経験してるから、もう怖いものなんてないんですよ(笑)。そこが売れなかったバンドの強み。
ナカジマ 何か面白いことが起きるかもっていう漠然とした感覚はありましたね。ネットの世界って、新しいも古いも関係なくすべてが並列に並んでるじゃないですか。
テついには、アメリカの有名ハードコアバンドHatebreedのメンバーがMVについてツイートするという。
和嶋 “バズった”ってヤツですね。なんでもやってみるもんです。
ところで、人間椅子のオリジナルアルバムは8作連続で売り上げが伸びています。CDが売れない時代とはいえ、この時代、ここまで連続して売り上げを伸ばせるアーティストはほかにそんなにいないのでは。
和嶋 スタート地点が低いけど、横ばいにならずに伸びているのはありがたいですね。
しかも、CDが売れなくなった2000年代からずっと伸び続けているという。
和嶋 3年に2枚は必ずアルバムを作ろう、常に前作よりもいいものを作ろうと思ってやってることが、ようやく結果として現れたのかな。
今後目指していることは?
和嶋 「無情のスキャット」のMVの再生回数が伸びたことで海外の方からのコメントがすごく増えてるので、世界の人に我々の音楽をもっと聴いてもらって、ライブを観てもらいたいですね。
鈴木さんはYouTubeのコメントで“ジャパニーズ・ジーン・シモンズ(KISS)”って書かれてましたね。
鈴木 そうですか!? それに見合うぐらい体を鍛えないとね。もうそろそろガタがきてるから、もう少し痩せてみるかなあ(笑)。
PROFILE
1987年に和嶋慎治(g、vo)、鈴木研一(b、vo)を中心に結成。1989年に深夜テレビ番組『三宅裕司のいかすバンド天国』(イカ天)に出演し人気に火がつき、1990年にメジャーデビュー。2004年に5代目(4人目)ドラマーとしてナカジマノブが加入。2010年代に入り徐々に人気が再燃し、2013年の“OZZFEST”出演が決定打に。2018年には三島由紀夫原作の連続ドラマ『命売ります』の主題歌を担当。30周年記念アルバム『新青年』が発売中。12月13日(金)中野サンプラザホールでワンマンライブを行う。
RELEASE INFORMATION
best album『人間椅子名作選 三十周年記念ベスト盤』(2枚組)
徳間ジャパン/12月11日発売