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2016.07.12

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その他

緊急対談!

冨田勲さんを偲んで
松武秀樹さん(日本シンセサイザープロフェッショナルアーツ)×服部玲治さん(日本コロムビア)

シンセサイザーを使った電子音楽の第一人者として世界的に知られる作編曲家の冨田勲さんが、 慢性心不全のため、5月5日に逝去されました。氏の弟子でありYMOとの活動等でも知られる 松武秀樹さんと、氏が倒れる直前まで新作の打ち合わせのために そばにいた担当ディレクターの服部さんに、氏との思い出を話していただきました。

text:今津 甲 photo:小松陽祐(ODD JOB LTD.)

松武秀樹さん、服部玲治さん

松武秀樹さん
1971年に冨田勲のマネージメント会社に入社しアシスタントを務める。独立後はYMOをはじめ、シンセサイザープログラマーとして数々のレコーディングやツアーに参加。一般社団法人日本シンセサイザープロフェッショナルアーツ代表理事、ミュージックエアポート代表取締役。

服部玲治さん
クラシック音楽への造詣が深く、2010年より冨田勲の担当ディクレターを務める。11月11日に初演予定だった新作「Dr.Coppelius」の打ち合わせで、亡くなる1時間前までに一緒にいた。日本コロムビア株式会社コロムビア・インターナショナルビジネスユニット所属。

シンセサイザーの人という以上にプランナーでありイノベーターだった。

原点は幼い頃、父親に連れられて行った中国の回音壁

冨田勲さんは創意工夫の方だったようですね?

松武まわってるターンテーブルの上に載せたスピーカーから音を出してドップラー効果を得る、とか(笑)。

服部『新日本紀行』の音楽(1963〜82年のNHKドキュメンタリー)では階段の踊り場にマイクを立てて残響音を得ていたとか。

松武僕が冨田先生のところに入社した1971年頃、先生のミキサーで電池駆動のものがあったんですけどね。これが電池がなくなってくると音が歪み始める。で、「電池買ってきますから」って言ったら「松武くんいいんだよ、この歪みを使うから」って。今のギターのディストーションの発想ですよね。それは何かのCMの音楽に使われたはずです。

今ほど物資がない時代ゆえの発想だったんですかね?

松武先生は戦争体験者で、戦時中ハンダも買えない頃は、鉛の水道管を削ってハンダを自作してたなんて話も聞きました。

DIYですね。

松武そう。まさにゼロから作るタイプ!

服部固定観念に縛られないというところでいえば、それは最後まで変わることはなかったと思います。オーケストラと初音ミクの共演も80才を過ぎてからの発想ですから驚くばかりです。

松武あれはびっくりしましたね。「え、先生が初音ミク?」って(笑)。

服部ご本人にとっては、ある日、テレビで初音ミクのドキュメンタリーを観て「これだ!」と思った、で、翌日に開発元であるクリプトン・フューチャー・メディアと連絡を取ろうとした、ぐらいのことだったらしいんですが。

その臨機応変ぶりのルーツは何だったんでしょうね?

服部幼い頃、父親に連れられて中国の回音壁に行ったそうなんですね。そこは壁が360度めぐらしてある場所で、声を出すとそれが反射してグルっとまわるんです。

天然サラウンドですね。

服部はい。昨年、先生とともにそこを再訪したとき「自分の原点にまた来れて良かった」とおっしゃってました。音を立体的にとらえる視点はそこから始まったのです。

「好きな音色で奏でられる自分のオーケストラを」と

それが1970年頃には、大変な思いをして当時1,000万円もしたモーグシンセを導入することにもつながっていく。

松武僕が先生から聞いた話では「好きな音色で奏でられる自分のオーケストラを持ちたかった」というのが導入の理由だったそうですが。

服部先生にお聞きした話では、オーケストラの楽器編成というのはワーグナーの時代に完成されてその後は変化がなかった。そこで、新しいサウンド、音響を生み出すのに、シンセサイザーはうってつけだったとのことでした。

松武実はシンセ導入以前から電気バイオリンのカルテットセットも持っていて、スタジオミュージシャンに「これで弾いてくれ」とか言ってたんですよ。あとラディックが作ってたシンセも持ってて、よく「ラデシン用意して」とか言われて(笑)。

服部言われてみれば60年代の音源にもシンセのような音が入ってますね。

松武『文五捕物絵図』(1967〜68年のNHK時代劇)では刀と刀が当たるタイミングでファズを通したエレキシタールをジャイーンって鳴らしてみたり。そしたらエンジニアが「先生、音が歪んでますよ」って(笑)。音を歪ませるのがダメな時代だったんで。

服部それは私もよく先生からうかがっていました。はじめのうちはテレビ局の音響スタッフの方々とすごい理解の差があったと。

時代劇でファズを通したエレキシタールを使う、というジャンルの超越ぶりもすごいですね。

服部『文五捕物絵図』は今聴くとすごいモダンな感じなんです。ジャズの要素なども入ってて。

松武NHK大河ドラマ『新・平家物語』(1972年)のテーマ曲で、ジャジャーンって琴が鳴ったすぐあとにガチャーンって音が入ってる。あれは琴の桜井英顕さんが力演しすぎて弦の駒が外れちゃった音なんです。桜井さんが「すみません、もう一度やります」って言ったら先生は「いや、これがいいんだよ」って。先生はその音が気に入ったようでそれ以降の仕事でもよく譜面に「駒倒し」って書いていました(笑)。

国宝建築の真上でスピーカーをヘリコプターで吊っていました

松武秀樹さん

お酒を飲むとよく「宇宙に行けるようになったらオーケストラは荷物が多すぎて連れていけない」と言ってましたね。-松武-

サラウンドへの取り組みも早かったですね。“サウンドクラウド”と名付けた野外イベントがスタートしたのは80年代でした。

松武今みんなクラウド、クラウドって言ってるけど最初に言い出したのは先生ですよね。あのイベントは僕も何回かお手伝いしたんですけど、京都の泉涌寺のときは強烈な印象でしたね。先生のサラウンドは高さも感じさせるために頭上にもスピーカーを置くんだけど、あのときはそれをホバリングさせたヘリコプターで吊っていました。しかも国宝の建築の真上で(笑)。あと、映像に合わせてプログラムされた音の速度を変えたい、と言われて僕がそういう仕組みを考えたり。

服部オーストリアではドナウ川のほとりに8万人を集めたようですね。それは「イーハトーヴ交響曲」や遺作の「Dr.Coppelius」でも同じ。先生、あるとき月を見ながらおっしゃったんです。「あの月は誰のものでもないでしょ。あそこにミクちゃんの顔を投射したらどうだろう」って。

服部玲治さん

月を見ながらおっしゃってたんです。「あの月は誰のものでもないでしょ。あそこにミクちゃんの顔を投射したらどうだろう」って。-服部-

松武出た(笑)!

服部みんなこれを真剣に考えたんですが、国家予算を超える規模になりそうだってことがわかって。先生の夢って規格外の大きさなのですが、言われると、なんだかできそうな気がしてきて。

これがアメリカだったらその夢の大きさゆえにサポーターも現れそうですが。

服部私たちも常に「そんなのできません」とは言わず、発想を縮こまらせないようにしてきました。「イーハトーヴ交響曲」では、先生のアイデアで、またもや新しいことに挑戦しました。通常であればミクに合わせてオーケストラが演奏するのですが、指揮者とオーケストラの音に合わせてミクが歌うシステムをクリプトンさんに数ヶ月かけて開発してもらったんです。

松武これまでは映像に音を合わせるのが普通でしたからね。

最終的には宇宙に行きたかったのではないかと思います

冨田さんって様々な面で、文化の進化を促進させる存在だったんですね。

服部そう思います。 冨田先生といえば、シンセサイザーのイメージが強いですが、それ以上にプランナーでありイノベーターだった。さらに、最終的には宇宙に行きたかったのではないかな、と思います。

松武お酒を飲むとよく「宇宙に行けるようになったらオーケストラは荷物が多すぎて連れていけない。だから自分の好きにプログラムした曲をシンセで鳴らして、そこにホログラムのオーケストラの映像を付ける」と言ってましたからね。

冨田さんとの交流のなかから得たことで、今も大切にしてることは何ですか?

松武先生は、どういうふうにしたら同じ音が出せるか?ということについてはいっさい教えてくれなかったんですよ。「それを教えたら僕と同じになっちゃうから。自分で音の設計図を描けるようになりなさい」って。シンセで描ける色はいっぱいある。自分なりにその色をどう配置するかという設計図を描けるようになりなさい、と。その部分はいまだに守ってることですね。先生の設計図はわずか10秒のパートにとんでもない時間を費やすようなものでしたが。

服部よくよく聴くと、普通では聴こえないような音も実はいっぱい入ってて。

松武これは想像なんですけど、先生が生前にトライした何十万、何百万っていう録音の95%は失敗だったと思うんですよ。残り5%がうまくいって世の中に出た気がする。さんざん失敗しないとあんなサウンドは作れませんからね。同じシンセを使って真似ようとしてもどうしても同じにならない音、というのがいろいろありましたから。

冨田 勲1
冨田 勲2

冨田 勲

1932年生まれ。作・編曲家、シンセサイザー奏者、音響作家。NHK大河ドラマやNHKおよび民法テレビ番組の劇伴、手塚治虫アニメ『ジャングル大帝』『りぼんの騎士』主題歌、映画音楽などを手掛け、1971年にモーグシンセサイザーを日本で初めて個人輸入して以降は「トミタサウンド」と言われる独自の音楽を創作し続け、世界にその名を轟かせる。2012年には初音ミクとオーケストラを共演させて話題に。代表作は、坂本九以来の日本人ビルボードランクインを果たし、日本人として初めてグラミー賞にノミネートされた『月の光』(1974年)、『惑星』(1977年)、『大峡谷』(1982年)など多数。2016年5月5日に慢性心不全のため逝去。享年84才。
pic:Yasuhiro Ohara(1枚目のみ)

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