音楽未来

2020.01.16

INTERVIEW

平原綾香

vol.49 平原綾香
-語り継がれるべき「歌姫」誕生物語-

高校の文化祭でミュージカル『天使にラブ・ソングを2』のリタ役を演じ 「Joyful, Joyful」を歌ったときのビデオテープが、当時ドリーミュージックの 社長だった新田さんの手にわたり、サックスプレイヤーを目指していた平原さんは 歌手としてデビューすることに。が、誰もが知る曲になったそのデビュー曲「Jupiter」が世に出るまでには想像以上の紆余曲折があった。 当時の背景から、現在、今後の音楽活動についてまで、平原さんの恩師であり 育ての親でもある新田さんに直接話をお聞きいただいた。 平原さん自身が初聞きのエピソードも多数飛び出してくる、とても貴重な取材となった。

text:山田邦子

未来を一緒に描いてくれたのは すごくありがたいことでした。 平原綾香
初対面のときの彼女の夢は、 実現できているんだなと。 新田和長

2人の出会い

まず、新田さんが平原さんにお会いになったときのことから聞かせてください。

新田 実は今日、初対面のときのインタビュー記録を持ってきました。(写真左)

平原 懐かしい!

新田 彼女が話したことを、僕がメモしているんです。「息の長いアーティストになりたい」「中途半端は嫌だ」「ジャンルを超えたい」――当時の夢というか方針は、実現できているんだなと感じました。あーや(平原綾香)と出会ったきっかけは、ある人が送ってくれたこの1本のビデオだったんですよね。(写真右下)

平原 そう、そのVHSです(笑)。高校の文化祭でやったミュージカル『天使にラブ・ソングを2』で「Joyful, Joyful」を歌っているところです。

新田 これを見てうまいな、カッコいいなと思ったんですが、ローリン・ヒルが演じていた役だからメイクで顔がわからなかったんですね。それで実際に会ってみたいと思い、2002年の12月4日、デビューの1年前に会って、さっきの話をしたんです。

平原 確かその前に、写真を送ってくださいって言われたんですよ。でも私が送ったのは、なぜか京都に行った際に撮影した舞妓姿の写真で(笑)。(写真右上)

新田 これで判断しろって言われてもわからないですよ(笑)。

平原 だけど結局、それが最初のアー写になったんです(笑)。でも新田さんに最初にお会いしたとき、びっくりしました。これは今も変わらないですが、すごくちゃんと聞いてくれたんですよ、まだ何者かもわからない私の話を。それで私も、言いたい放題ではないですが(笑)、自分の夢を語りまくったんです。

新田 僕はそのとき、歌ってほしいと言ったんですよ。会社の僕の部屋だったんですが「ここでアカペラで歌ってくれますか?」って。そしたら彼女は「次回」と答えたんです。僕はそれを何の抵抗もなく受け入れたんですが、よく考えてみると、もう一度会うことを決めたのは僕じゃなくて、あーやだったんですよ(笑)。

平原 おかしいですよね。

平原綾香

左:2002年に新田さんが平原さんと初めて会ったときの会話のメモ。右上:写真を送ってくれと言われた平原さんが送った写真。右下:すべての始まりとなった1本のビデオテープ。

新田さんにお会いしたとき、ちゃんと聞いて くれたんですよ、まだ何者かもわからない私の話を。 それで私も自分の夢を語りまくったんです。

約束の歌

新田 それで2回目にまた同じ部屋で会って、「じゃあ約束の歌を歌ってください。アカペラで」と言ったら、忘れもしないです。彼女が「はい」と立ち上がって、肩幅くらいに足を広げてフッと息を整えたんです。これは本気だな、本物だなと気配で感じました。そしていざ歌い始めると、部屋がビリビリと震え出したんですよ。部屋の作りが悪かったのかもしれないけど(笑)、あーやの持ち前の低い声の周波数が何かと共鳴したんでしょう。びっくりしました。それで「これはすごい歌手が出てきた!」と触れまわったんです。でも僕はそのことがあーやを苦しめたというか、プレッシャーをかけちゃったんじゃないかなっていう反省も実はあるんです。

平原 初耳です。そうだったんですか?

新田 僕があまりにも「うまい、うまい」って言ってたから、うまく歌わなきゃいけない、みんなの期待に応えなきゃいけないって思うようになったのかなって。あーやは真面目だし、努力家だし、責任感があるから。

平原 そんな、全然何も考えてなかったです(笑)。

新田 だったらいいんだけど(笑)。

そのときは何を歌われたんですか?

平原 「At Last!」という曲です。エタ・ジェイムズというジャズの歌手の代表曲なんですが、それをクリスティーナ・アギレラがカバーしていたんですよ。アカペラに合う曲じゃないと伝わらないなと思って探していたときにこの曲に出会ったんです。これだったら、マイクなしでもいい声の成分も出るかなと思って。

次回の約束をしてから決めて、練習を。

平原 はい。私はずっとサックスをやっていたからそもそも歌手ではないですし、人前で歌ってって言われることもなかったから、何のストックもなかったんですよ。「Joyful, Joyful」を歌えば良かったんでしょうけど、そうしなかったのは何か考えがあったんですかね(笑)。

新田 その曲、クリスティーナ・アギレラはまだCDにも収録してなかったんだよね。

平原 VHSでした。初めて行ったニューヨークのHMVで、洋楽のいろんなVHSを買ったんです。たぶんそのなかの1本でした。CDにもなっていないし、歌詞を検索できるようなサイトもないから、MDのマイクで録音した音を聴きながら歌詞をおぼえたんです。買い物に行った渋谷のロフトで、文房具を見ながら(笑)。イメージトレーニングもすごくしました。私は歌い慣れていませんから、「どんなふうに歌ったらいいかな?」って。

新田 ブルースコードの曲なんですけどね。あーやは耳でおぼえて、英語で完璧に歌ってましたよ。

平原 でも、自分の音楽を認めてもらえたのはすごくうれしかったです。ちゃんと聴いてくれて、絶対にバカにしないというか下に見ないというか。「デビューさせてやる」みたいなことではなく、ちゃんとリスペクトしてくれていましたからね。下積みも何もなく、もともとサックス専攻だった私の歌を認めてくれて、未来を一緒に描いてくれたのはすごくありがたいことだったなと思います。

平原綾香

2003年12月17日、ホルストの管弦楽組曲『惑星』の第4楽章「木星 快楽をもたらす者」を原曲としたシングル「Jupiter」でデビュー。2004年のレコード大賞優秀新人賞を獲得し、2004年末には紅白歌合戦にも出演した。

あーやが歌う国歌は選手たちの激励になったと。 関係者があーやのことを「勝利の女神」と呼んで いるのを聞いて、僕もすごくうれしかった。-新田-

「Jupiter」誕生秘話

2003年12月17日、平原さんは「Jupiter」でデビューを果たします。

平原 自分は歌手でもないし、サックスだってこれからがんばらなきゃいけなくて、だけど音楽をずっと一生やっていくんだと心に決めていたので、デビューのきっかけをいただけてとてもうれしかったです。とはいえ、「デビューするんだ! やった!」みたいな感じはなかったんですよね。たぶん、人にどう“伝わる歌”が歌えるのか、そういうことを考えていたから。デビュー曲を考えるときも、その頃は特に世界中のことを見ていました。

世界中のことを見ていた?

平原 世界中というと規模が大きくなってしまいますが、自分が歌を歌うなら、心が温かくなるようなものを歌いたいと思っていたんです。(2001年には)9.11もありましたし、難病を抱えたアシュリー・ヘギちゃんのドキュメンタリーを観たりしていたので、そういう感覚だったんですよね。自分自身も、本当の自分は何なんだろうとか、どれが本当の自分なんだろうって考えたりしていて。それが(のちに「Jupiter」の歌詞の一節である)「ありのまま」という言葉につながっていくんですけど。

新田 デビューに至るまでには、本当にいろんな試行錯誤がありました。可能性のある曲を何曲か録音したりもしましたが、あーやのなかには本命がなかったんでしょう。そんなときに、たまたま授業でホルストの『惑星』のなかの「木星」を聴き、感動して涙が出たと。当時のA&Rの森くんやプロデューサーの坂本昌之くんを通じて、あーやが「クラシックでもいいですか」と言ってきたんです。改めて聴いてみるとすごくいい。それで決まったんです。だからデビュー曲は、あーやが自分で決めてるんですよね。もちろん僕らもプロですから、作品のことや世界観はみんなして考えていたんです。だけど今ひとつというときに、本人が曲も詞のテーマも考えてきた。これが“平原綾香”の誕生なんです。

平原 でも、そこからが大変で(笑)。

新田 何度も何度もあーやが歌詞を書いて、旅先からファクスで送ってくれたこともありました。

平原 半年くらいずっとやってましたよね。

新田 そのうち、直接関係のない人まで詞を書いて口出ししてきたんですよ(笑)。これはもう早くやらないとマズいなと思って吉元由美さんにお願いしたんです。ところが、あーやはその第1稿を見て「どこで私が歌っているのかわからない」と言ったんです。暗い部屋のなかで目をつぶって世界に向けて歌う歌なのか、土手に座って空を見上げながら歌う歌なのか、わからないと。あーやはそのとき18か19歳。僕は50代も後半。これまでヒット曲をいっぱい作ってきました。「なんだよ」って言えたかもしれないけど(笑)、あーやの言うことが納得できたんです。それで第2稿をお願いすることになったのです。

平原 歌詞や想いを書いた何十枚もの原稿を私から吉元由美さんに渡して書いてもらうことにしました。

新田 そうして「Jupiter」は完成したわけです。

平原 発売日に関してもいろいろありましたよね。本当に壮絶でした(笑)。一度レコーディングをしたけど…。

新田 そのときの歌、すごく良かったんですよ。でも翌日、あーやから坂本くんにメールが来たんです。一緒にいたので見せてもらったら「もう一回歌い直したい」と。「家に帰って小さな音で聴いてみたら、良くなかった」。今でもおぼえているんですが「悲しくって、悔しくって」と書いてありました。

平原 とても悩んだんです。普通だったら録り直しなんてしてもらえないけど、勇気を出してお願いしました。なのに、私が体調を崩してしまって。

新田 そうそう(笑)。

平原 結局押しに押して、デビューが12月になりました。12月は競合がたくさんいるからダメだってみんな言ってたんですが、新田さんは「今年歌った歌は、鮮度が高いうちに出すべきだ」と言って、新人としては異例の12月デビューになったんです。

新田 東芝EMI時代にEXPRESSというレーベルを担当していたんです。EXPRESSという名前は、録音したらできるだけ早くユーザーに届けるべきだという上司の考えからでした。12月は確かに各社とも年末商戦でいっぱい出してくるから、新人には不利。だけど僕はしつこい性格なので調べてみたら、1998年の12月に宇多田ヒカルさんがデビューしている。ほら見ろと(笑)。

平原 そうでしたね(笑)。当時いろんなところにご挨拶に行ったとき、複雑な思いになったことがありました。人気が出てやっと「いい曲だ」と言ってくれる方がいたり、最初は怖かったのに、注目されるようになると急に優しくなった方もいたり。少し悲しい気持ちになりました。

新田 (笑)。いつの時代も、新しくて魅力的な作品やアーティストは簡単に受け入れられないことが多いんですよ。天才であればあるほど誕生や成長段階では抵抗勢力も多いことを歴史が証明しています。

平原 だから自分はまっすぐ生きようと思ったし、自分がどんなにダメなときもいいときも変わらずそばにいてくれる人を大切にしようと思いました。

新田 ちなみにこれは「Jupiter」を発売してからの売上記録です。(下写真)

平原 こんなのも取ってあるんだ(笑)。

新田 普通は10万枚なんて売れないんだから1マスが1千でもいいのに、これは最初から1マスが1万。でも僕は思うんです。平原綾香という人に出会って、みんなの才能が立ち上がったんですよね。

平原綾香

新田さんが残していた「Jupiter」の売上記録。単位が1万だったことを周囲に驚かれたというが、当初の1.3万枚が結果100万枚を超えるロングセールヒットとなった。

自分のことだけ考えて歌ばかり練習してもダメ。 人のために枝葉も伸ばしていかないと、 本質である幹は太くならないことにも気づきました。

「勝利の女神」と言われるように

デビュー後は数々の賞を受賞し、NHK紅白歌合戦にも8年連続で出場。最近ではミュージカルの主演も務め、LA DIVAというグループでの活動など表現の幅も広がっています。

新田 ラグビーワールドカップの開幕戦で国歌斉唱もしましたよね。あーやが歌う国歌は選手たちの激励になったと、組織委員会の方々から聞きました。これまでもそうですが、あーやの歌の力とスポーツ、とてもいい関係にあるなと感じています。

平原 うれしいです。

新田 関係者の人たちがあーやのことを「勝利の女神」と呼んでいるのを聞いて、僕もすごくうれしかったですよ。

平原 実はその国歌斉唱のとき、緊張しなかったんですよ。これが全世界に放送されるとか、何億人が見てるとか、そういうことはまったく考えていなかったから。それよりも、このラグビーのワールドカップが開催されること自体がいろんな人を励ましているんだということを思っていたんです。

新田 ラグビーに関してはこれまでの積み重ねがありますからね。2006年の対イタリア戦で国歌を歌ったのが最初ですが、国立競技場が閉鎖される直前の対香港戦でも歌っていますし、釜石鵜住居復興スタジアムの竣工式で地元の中学生と一緒に歌ったり。だから平常心でいられたのかもしれないですね。

平原 そうかもしれません。私はこれまで何度か釜石を訪れているんですが、津波で流されて何もなくなった場所にラグビー場を建てるなんてと非難されて悩んでいる人も、子供たちに夢を見てもらいたいからってがんばっている人も見てきました。そういう経緯や開催に向けての盛り上がりを現地で感じてきたからこそ「釜石のみんな! ついに開幕したよ! 見てる!?」って、そんな気持ちだったんです。誰かのためにがんばるということがこんなにもパワーになるんだって、改めて思いました。人を楽しませたくて、デビュー当時からいろんなことにチャレンジしてきました。すると今までできなかったことができるようになって、ひとつ成長できるとまた新たなチャレンジが来るんです。

新田 自分じゃなくて人のためにっていう気持ちがあるから強いよね、あーやは。

2020年の平原綾香

では、今後のことについてもうかがってみたいのですが。

平原 2020年は年女なんです。しかも本厄(笑)。だけどある人が厄年の“やく”は飛躍の“やく”ですよって言ってくれて、それって素敵だなと思ったんですよ。

新田じゃあ見出しはそれですね。「厄年は、飛躍の年!」(笑)。

平原 (笑)。母が昔から言っていることなんですが、10秒悩んで、すぐに立ち上がろうって。自分はこれがあれば幸せになれるとか、これがないと幸せになれないとか。いつか幸せになれるという考えではダメなんですね。今、幸せにならないと。これからもいろんなチャレンジが待っていると思うけど、いろんな歌をもっともっと歌えるようになりたいし、音楽とは直接関係ないこともたくさんやるべきだと思っています。私はすごく寝付きが悪いんですが、あるとき、いつも任せっきりにしているお皿洗いをやったら、すごくよく眠れたんですよ。そしたら、声の出まで良くなった。自分のことだけ考えて歌ばかり練習してもダメなんですよね。人のためにお皿を洗ったりして枝葉も伸ばしていかないと、本質である幹は太くならないんだっていうことにも気づきました。これからも地味に、地道にやっていきたいと思っています。

平原綾香 PROFILE

1984年5月9日生まれ。2003年12月17日にホルストの組曲『惑星』の「木星」に日本語詞をつけた「Jupiter」でデビュー。デビュー10周年を迎えた2013年にユニバーサルミュージックに移籍。2014年からはミュージカルにも出演、2015年には音楽を通じての社会貢献や様々な支援のための「平原綾香 Jupiter 基金」を設立。これまでシングル32枚、デュエットシングル1枚、カバーアルバム、ベスト盤を含む22枚のアルバムを発表。ソロ活動はもちろん、ユニット「LA DIVA」での活動や、2020年にはキャロル・キング役を演じるミュージカル『ビューティフル』の再演も決定している。

https://www.camp-a-ya.com/

聞き手 新田和長(プロデューサー) PROFILE

東芝EMI(現ユニバーサルミュージック)で赤い鳥、トワ・エ・モワ、RCサクセション、チューリップ、オフコース、サディスティック・ミカ・バンド、甲斐バンド、寺尾聰、長渕剛らを手掛け、その後、ファンハウスを設立。2001年にはドリーミュージックを設立し、平原綾香を発掘、同社退社後の現在もプロデューサーとして関わっている。

RELEASE INFORMATION

21st album『はじめまして』

ユニバーサルミュージック/発売中

タグ: