音楽未来

2019.05.24

INTERVIEW

GRAPEVINE

vol.47 GRAPEVINE
-転がり続ける-

1993年に結成、1997年にデビューしたGRAPEVINE。 途中にメンバーの病気による脱退があったり、これまで2度のマネージメント移籍が あったりしつつも、マネージャーが変わることはなく、そして一度もバンドを 休ませることなく活動を続けているロックバンドだ。その軌跡を追った。

text:兵庫慎司

 2019年にデビュー22年を迎えたGRAPEVINE。デビューの段階ですでに完成されていた、と言っていい実力派であり、同業者からも高く評価され、一生離れないような熱心なファンを多数抱え、1年に1作もしくは2年に1作のアルバムリリースをキープし、活動休止もソロ活動もなく堅実に歩んできたバンド。そんな印象の彼らだが、それでも実はいろいろあった、結成から26年の歩みを振り返ってもらった。

“ああ、こういうバンドの 転がし方もあるんだ”と。 続けることはできるんだなって。

結成からデビューまでの道のり

1993年に大阪で結成ですよね。

田中和将(vo、g) はい。脱退してしまった西原誠という男が言い出しっぺでですね。知人を介して西原さんと西川さんが出会い、その2人でメンバーを探し始めるんです。そこへ僕がやってきて、お手伝いでドラム、そしてキーボード。

西川弘剛(g) キーボードと田中くんはメンバー募集の貼り紙をちぎって、連絡があって。

田中 でも、お手伝いのドラムの人はなかなか来れる機会がなくて、活動もままならない。僕も「ギターはいいがボーカルで看板背負うの嫌やな」っていうので、いったんフェイドアウトしたりして。で、ちゃんと動き出すのが1994年。僕がいない間に亀井くんが入って、そこに僕が戻ってきて。

西川 とりあえず曲を溜めようっていうので、ライブもやらずに曲作りばかりしていて。デモテープを作ってライブハウスに持っていくまでに1年ぐらいかかりましたね。

アマチュアって、まずとにかくライブをやりたいとなるんじゃないかと思うんですが。

西川 うん、ライブでのし上がっていこうみたいな人が多かったと思うんですけど、僕らはそういうのが全然なくて。

田中 ジーンっていうライブハウスが(大阪の)日本橋にあって。そこで始めて、じきにバナナホールに拠点を移して。動員を増やすというよりは、自分らの経験のためにライブをやろう、みたいな。最初からプロになろうという意識があったんだと思うんですよ。デモテープを作ってレコード会社やプロダクションにばらまくという方針も、わりと早い段階からそうしていたし。バナナホールがインディレーベルを立ち上げるときに、参加させていただいて。で、デモテープを送ってたら、いくつかリアクションをいただいて。

結構な争奪戦になったんですよね。

西川 いっぱい返事もらいましたよ。レーベルの方にも、プロダクションの方にも。

亀井亨(ds) でも、同じようなことをして失敗してる人もいっぱい見てたんで。だいぶ警戒してましたね、東京の業界の人たちを。

GRAPEVINE

4人組で始動したGRAPEVINEは、1997年にミニアルバム『覚醒』でメジャーデビューし、上京。写真は1998年のファーストアルバム『退屈の花』リリース時。

とりあえず曲を溜めようって、曲作りばかりしていて。 デモテープを作ってライブハウスに 持っていくまでに1年ぐらいかかりましたね。

デビュー当時の時代背景

最初に所属することになるポニーキャニオンとアロハ・プロダクションズ以外に、最後まで候補に残った会社ってあります?

西川 スピードスターです。だから今、お断りしたレーベルに所属してる(笑)。

田中 実は当時、東京に2度呼んでいただいてるんですよ。ポニーキャニオンで一口坂スタジオでデモテープ録るというのと、スピードスターでデモテープ録るというので。なので、移籍後に再びビクター青山スタジオでレコーディングし始めたとき“懐かしいなぁ!”って(笑)。

ポニーキャニオンにした決め手は?

田中 野城(俊幸)さんというディレクターに、人として惹かれて。非常に誠実に感じましたし、僕らのことを長い目で見てくれそうだという印象があったので。人で決めました。

アロハはそのあと?

亀井 あ、でも、スピードスターの人たちと一緒にアロハと会ってたんですよね。だから、スピードスターに行ってたらもれなくアロハだったんですけど、ポニーキャニオンに行ってもアロハだったんです(笑)。

スピードスターにはUA、ポニーキャニオンにはホフディラン、アロハの人気アーティストがいたからですかね。

田中 だと思います。その前にマネージャーの濱中(茂紀)さんとは出会っていて。一番乗りで声をかけてくれていて、一緒にやろうということにはなってたんですよ。それで濱中さんがアロハに入って、僕らと一緒にやる、という形になりました。

で、1997年デビューですが。当時、バンド業界中がポストミスチルを探していて。GRAPEVINEもそこに数えられていて。でも、さして抵抗していなかったですよね。

田中 ああ、言われてましたね。でも普通にミスチル好きでしたし、そこで間違えて買ってくれる人がいれば、いいじゃないですか(笑)。まあ、そういうもんだろうと思ってましたしね、日本のシーンみたいなものは。似たようなのを探して、似たようなふうに売ろうとするもんじゃないですか。でも別に、うちは売り方をそっちに寄せるわけでもなかったんで。言われるぶんには別に、関係ないと言いますか。

西川 でも本当、同時期にデビューしたバンドが多くて。音楽バブルな頃というか、アロハもイケイケな頃だったんで。音楽業界ってすごいなぁって思いましたけど…そんなことはなかったですね(笑)。

田中実際だって、あの頃が一番CD売れてますもんね。

あと、デビューの時点で仕上がってましたよね。当時、新人バンドがいっぱい出るイベントで観て、GRAPEVINEだけ新人感が全然なかったのをおぼえてます(笑)。

田中自分らではそうは思わないんですけど。でも音楽性、好み自体が老けてたと思うんですよね。だから、老成してるとか、そういう言われ方はよくしましたね。

で、すぐ形になったというか、人気バンドになりましたよね。

田中おかげさまで、ディレクターの野城さんはじめ、周りによくわかっていただいてたんですね。そういう意味では順調でした。当時はまだ8cm CDがあって、でもそれではデビューしたくない、マキシシングルも流行ってるから嫌だって言って、ミニアルバム(『覚醒』)でデビューさせてもらうとか。そういうわがままも通りましたからね。

変則のバンド編成に

では最初に暗雲が立ち込めたのは、2001年に西原さんがジストニアで一時離脱、療養して復帰したものの最終的には脱退した、という事件でしょうか。

田中 そうですね。腕の具合が悪くなりだしたのは、サードアルバム(『Here』)のツアーをやっていた2000年ぐらいからで。そのとき、根岸(孝旨)さんにプロデュースしてもらっていたので、フレーズは西原誠が考えて、根岸さんに弾いてもらう、という形をとったりしてたんですけど。いよいよ休まないと、ってなって、その間に現在もサポートを続けてもらってる金戸(覚)さんと高野(勲)さんに入ってもらうんですけど。それで、療養して戻ってきたんですが、やはり完全復帰はできず、脱退という結果になりましたね。

当時のインタビューで、メンバー的にはそこで解散するという選択肢もあったと。

田中 そうですね。何度も話し合いましたし。

亀井 やめるという話も出たし、西原さんがベースを弾かないで関わっていく方法もあるかもしれない、という話も出たし。いろんな選択肢はあったんですけど。

田中 オリジナルメンバーじゃなくなることがどの程度重要なのかというのは…僕らにとっては重要ですけど、外からの見え方はわからないし。でも、何より脱退していく本人が「ぜひとも続けろ」と。で、休んでいる間に入ってくれた金戸さんと高野さんとすごい相性が良かったので。“ああ、こういうバンドの転がし方もあるんだ”という実感はあったもんですから。続けることはできるんだな、できるんだろうけども…っていうような話し合いでしたね。

そのピンチを乗り越えてからは、メンバーの関係性は変わりました?

亀井 そうですね、金戸さんと高野さんが入ってくれたおかげで、バンドとして仲良くなりました(笑)。長いツアーを一緒にまわるようになって、酒飲む機会が増えて。

田中 つかず離れずの関係性ではあるんですけど。友達同士が組んだバンドではなかったですし。そこで西原誠はムードメーカーみたいな役割だったんですけど、その代わりに金戸さんと高野さんが、すごくいい潤滑油になってくれて。

西川 西原くんが離れたタイミングで、ディレクターの野城さんとプロデューサーの根岸さんも離れたんですね。っていうか、西原くんの問題が解決するまでは離れなかった、それが一段落したから離れても大丈夫ってことだったんじゃないかと思うんですけど。エンジニアの宮島(哲博)さんは残ってくれて、これからはこの体制でやっていこうという。

田中 宮島さんの存在は大きくて。その体制で『イデアの水槽』(2003年の6thアルバム)をセルフプロデュースで作るんですけど。宮島さんも僕らと一緒に考えて作っていく、金戸さんと高野さん、宮島さん、というプロダクションになりましたね。

西川 宮島さんもオールドロック好きな人で、いろいろ教えてもらってますし。

田中 いまだにお世話になってますし。『Circulator』(2001年の4thアルバム)からは全部宮島さんです。

金戸さんと高野さんですが、バンドにとってのサポートメンバーの利点に、代えられる、というのもあるじゃないですか。

田中 そうですね。いろんな人とやってみたい、っていう考え方もあると思いますし。僕らもそういう気持ち、ないわけではないんですけどね。たぶん、最初の頃にいろんなサポートメンバーとやっていたらそういうフレシキブルな感じになったんでしょうけど。最初の数年をわりとガッツリ同じメンバーでやってしまったものですから──。

亀井 もうバンドになっちゃってる。

田中 そう、完全にバンドなんですね。曲作りにもイチから関わってもらってますし。

GRAPEVINE

2001年、西原がジストニアの治療に専念するため一時バンドを離脱、2002年に復帰するも脱退した。写真は2003年の6thアルバム『イデアの水槽』リリース時。

8cm CDではデビューしたくない、マキシシングルも 嫌だって言って、ミニアルバムでデビューさせて もらうとか。そういうわがままも通りましたね。

最初の移籍

で、次の大きな出来事が、2006年にマネージメントがポニーキャニオン内のPC MUSICになり、濱中さんと一緒に移るという。その8年間はどんな感じだったんですか?

田中 いや、僕ら自体はそれなりに充実してたと思いますし…あとね、放置されてましたね(笑)。よく言えば好きにやらせてもらえてる、僕らもそれをいいようにさせていただく、といいますか。あと、その頃に僕らは、長田(進)さんと出会うことになって──。

プロデュースだけじゃなくて、長田進with GRAPEVINEとして、アルバムもリリースしましたよね(2010年の『MALPASO』)。

田中 長田さんにものすごい影響を受けたと思います。グルーヴなんかにもものすごく厳しい人で。僕らもある程度経験を積んでる段階で一緒にやってもらうわけですから、それを踏まえての教育といいますか。ビシビシやってもらいましたね。成長できている手応えがあった時期ですね。

西川 セッションで曲を作ってみろって言い出したのも長田さんですから。

田中 なんせその、人としての強さっていうんでしょうか。人間力みたいなのがすごくて。憧れますね、いまだに。

2度目の移籍

それで2014年に、また移籍が。

亀井 そのときは、事務所もメーカーもなくなるっていう完全に無職の状態に、僕たちも濱中さんもなって。そこそこ深刻でしたけど、濱中さんがいろいろ動いてくれて。

田中田中 で、いくつかの会社と話をしつつ、結果的にスピードスターに。デビューのときに断ったのも含め、これも何かのご縁だろうと(笑)。マネージメントはスペースシャワーミュージックになって、また濱中さんと一緒に。

活動はずっとコンスタントに続いてきたバンドだけど、その今の体制になってから、いろいろ活発化したように見えます。

田中 そうですね。新たに始めるためには、みたいなところで、すごくがんばってくれたと思うんですよね。スピードスターのスタッフも、スペシャのスタッフも、すごく熱意を持って受け入れてくれたんじゃないですかね。

たとえばSuchmosと対バンしたり、中村佳穂とツアーをまわったり、世代の違うミュージシャンと共演するようになったのは今の体制になってからですよね。

田中 幸いスペシャというのは、幅が広いといいますか、懐が深いといいますか。多種多様な人たちがいるので、それはすごく良かったんじゃないかなと思います。すごく良くしてもらってますよ。

GRAPEVINE

デビュー15周年となる2012年、ミニアルバム『MISOGI EP』リリース時のGRAPEVINE。デビューから22年以上が経つ今も、変わらずコンスタントに活動を続けている。

わかり合えてから出てくる喜び、みたいなのは、 大事にしたいタイプなのかもしれないです。 珍しいですか(笑)?

現在のGRAPEVINE

最新アルバム『ALL THE LIGHT』はプロデューサーがホッピー神山さんでしたけど、そんなふうに何か新しいことをやっていかないと飽きる、とおっしゃっていましたよね。

田中 まあ、そうなんですよね。特別何か斬新なことをやろう、みたいなふうには考えてないんですよ。なので、何かちょっとそういう異物じゃないですけど…対バンとかでもそうですけど、そういう交流がないと活性化していかないんじゃないかな、という気はしてますよ。ほかの人なら、ソロ活動をやったり、活動休止をしたり、ほかでもバンドを始めたり、っていうことだと思うんですけど、あんまりそういう意欲がないんですよね、僕は。

だってほかでのバンド、FTK&KもPermanentsも、メンバーやサポートメンバーと一緒にやってますもんね。

田中 たぶん、性格がそういう感じなんでしょうね。なので、何かしらそういう異物混入を無理からしていかないと、というところはあるんじゃないですかね。

西川さんは前に、小谷美紗子やCoccoのライブでギターを弾きましたよね。

西川 そうですね。いや、やるチャンスがあればやったほうが面白いと思いますけど。

田中 経験になりますからね。

やって良かったと思った?

西川 あとあとね。やってるときは大変でした(笑)。スケジュールが倍になるから。

レーベルも事務所も移ってるけどマネージャーはずっと濱中さんだし、サポートの2人もエンジニアの宮島さんも長いし、ライブ制作の亀石(健二郎)さんもデビューからですよね。そういうふうに、長いつきあいを築いていくのが好きなバンドなんですかね。

亀井 メーカーのアーティスト担当のスタッフって、結構代わるじゃないですか。せっかく仲良くなってきたのに代わっちゃうんや…ってこと、多いですもんね。同じ人と長くやるほうがつきあいやすいな、っていうのがたぶんあるんですね、性格的に。

田中 わかり合えてから出てくる喜び、みたいなのは、大事にしたいタイプなのかもしれないです。珍しいですか(笑)?

PROFILE

1993年、大阪で結成。田中和将(vo、g)、西川弘剛(g)、亀井亨(ds)、西原誠(b)の4人で活動を開始。1997年にミニアルバム『覚醒』でメジャーデビュー。2002年12月に西原が病気療養のため脱退し、金戸覚(b)、高野勲(key)を加えた5人編成に。2014年より、レーベルはスピードスター、マネージメントはスペースシャワーミュージック。最新作は2月にリリースされた16thアルバム『ALL THE LIGHT』。現在は4月12日にスタートした全国ツアー“GRAPEVINE TOUR2019”の真っ最中で、ファイナルは6月28日(金)Zepp DiverCity。

https://www.grapevineonline.jp/

RELEASE INFORMATION

new album『ALL THE LIGHT』

ビクター/VIZL-1505(DVD付き限定盤)、VICL-65092(通常盤)/発売中

タグ: