音楽未来

2018.01.18

INTERVIEW

松本 隆

vol.42 松本 隆
-永遠のうた-

2017年に紫綬褒章を受賞した松本隆さん。 作詞家として、これまでに2千曲以上の歌詞を提供し、 シングル総売上数は約5千万枚と言われ、また、日本語ロックのパイオニアと うたわれる伝説のバンド、はっぴいえんどのドラマーでもあった。 今回はその松本氏をお迎えし、これまでの活動を振り返っていただきつつ、 若きマネージャーたちへのエールもいただいた。

text:君塚 太

 現在、日本音楽制作者連盟の会員プロダクションには数多くのバンドが所属しているが、源流をたどれば、松本隆さんが細野晴臣さん、大瀧詠一さん、鈴木茂さんと1969年に結成したロックバンド、はっぴいえんどに行き当たる。メンバー自身の手による日本語の詞が、バンドならではのサウンドと一体となることでリスナーの共感を得る。今なお変わらないバンドの理想的な形を、はっぴいえんどはすでに実現していた。
 そのはっぴいえんどのドラマーであり、作詞を手掛けていた松本さんは約3年間の活動後、作詞家に転身。時に歌謡界のトップに君臨していた作曲家・筒美京平さんとコンビを組み、時にバンド時代の仲間を作曲家に起用しながらヒット曲を量産。2016年までに作詞した楽曲は2,100を超え、シングルの総売上は約5千万枚、ヒットチャートの1位になった楽曲は52曲。松田聖子さんや太田裕美さんへ提供した作品では微妙な女性心理を描き分けていたし、対照的に南佳孝さんや寺尾聰さんにはハードボイルドなロマンを漂わせる詞を書いている。
 作詞家としてのキャリアとその功績を記し始めたら、すぐに紙幅が足りなくなるほどの“レジェンド中のレジェンド”である松本さんだが、ご本人にお会いするとまた違った印象が伝わってくる。筆者は数年前、ある仕事の打ち合わせで代官山のカフェで松本さんと待ち合わせた経験があるが、緊張して窓際の席でお待ちしていると、パーカー姿の松本さんが現れた。小雨が降る午後、車から降り、パーカーを頭からかぶって傘もささずにカフェのエントランスにかけ寄ってきた長身の姿は、街で普通に暮らす男性そのものだった。“大先生”の重々しさではなく、40代くらいにしか見えない軽やかな足取りだった。
 そんな松本さんが昨年、紫綬褒章を受賞された。心から祝福したい気持ちとともに、カフェでお会いしたときよりセレブリティとしてのオーラが増していて当然…という思いを抱えてインタビューにのぞんだが、松本隆さんは変わらぬカジュアルな口調で話し始めた。

自分に恥ずかしくないものを書く。それが自然に残っていっただけですよ。

はっぴいえんど

紫綬褒章の受賞、おめでとうございます。受賞会見で「作品が自分の存在を証明してくれた。守ってくれるのは作品だけ」とおっしゃられていたのが非常に印象的でした。

ご存知のように僕はサブカルから出てきていますからね。はっぴいえんどというクチコミで支持されたバンドから出発しているので。作詞家になったあとも「寄らば大樹の陰」をしなかったんです。大組織をバックボーンにしていたわけではなく、カッコ良く言うと、自分が生み出した作品を大衆が支持してくれたおかげで続けてこられた。僕にとっては大衆こそが自分を守ってくれる大組織なんです(笑)。だからヒットしたかどうかは関係なく、作品が1人歩きしていく。「風をあつめて」なんてシングル盤のA面でもなく、はっぴいえんどのアルバム(1971年『風街ろまん』)の1曲にすぎないのに、みなさんが聴き続けてくれて。

「風をあつめて」は映画『ロスト・イン・トランスレーション』(ソフィア・コッポラ監督/2003年)でもエンディングで流れたり、海外からも支持されています。

京都にいるとね(現在、京都在住)、若い外国人と出会うことが多いのですが、「私、はっぴいえんどを知っています」と言われることもあります。「どこの国から来たの?」と聞いたら「コスタリカ」だと言っていました。それと僕がNHKで対談した船越雅代さんという料理人の方(京都「kiln」シェフディレクター)には、デンマークの人の若い女性アシスタントがいて、彼女は「風をあつめて」を日本語で歌えるそうです。こちらの想像を超えていろいろな国の方に知っていただいていて驚きますね。

逆に言うと海外にいる方々が、それぞれどのようなきっかけで、はっぴいえんどのことを知ったのか興味深いですね。

日本側から仕掛けたわけではないことを、僕はよく知っていますが(笑)、とにかく自然発生的なんです。『ロスト・イン・トランスレーション』で使われたことも大きかったと思いますし、最近でもニューヨークタイムズではっぴいえんどのことが取り上げられたり(2017年10月27日掲載の1970年初頭の日本のロック、フォークに関する記事。はっぴいえんどの詞を「不可能なことに挑戦していた」と紹介)、金延幸子が取材を受けたりね。フランスのリベラシオンという新聞でも、はっぴいえんどの写真がかなり大きく載っていました。そういう形で作品が今なお取り上げられていて、ニューヨークやパリや世界に散らばっている。もちろん(作曲者の)細野(晴臣)さんの力もあるんだけど、まあ、自然発生的に日本の曲が海外まで届くというのは、あまりない現象だからね。喜ぶべきことなのかなと思います。

はっぴいえんど

1969年に細野晴臣、大瀧詠一、鈴木茂とはっぴいえんどを結成。1971年にリリースされたセカンドアルバム『風街ろまん』は、日本のロックの名盤として今でも世界中で聴かれている。

自分が生み出した作品を大衆が支持してくれたおかげで続けてこられた。僕にとっては大衆こそが自分を守ってくれる大組織なんです。

日本語ロック論争

はっぴいえんど時代の松本さんは、日本語でロックをやるという選択をし、当時ロックは英語で歌うべきか、日本語で歌うべきかという論争まで起きました。

はっぴいえんどが日本語でやるか、英語でやるかを決める話し合いを細野さんとしたとき、「松本は日本語の詞が世界的に流通すると思うのか」と聞かれて、「確率的にゼロではない」と答えたんです(笑)。「かなり難しいけれど、もし海外でも流通するとしたら、ヘタな方言みたいな英語より日本語のままのほうが可能性はあると思う」と。僕らが英語で歌っても、イントネーションがおかしくなって結局は現地の人に伝わらないと思った。方言みたいな英語を使う出演者が、アメリカのテレビ番組で笑われている例を実際に見たこともあるしね。もちろん、日本語で歌ったとしても、のちに今のような状況になるとは、はっぴいえんどをやっていた20才の頃の僕は想像もしていなかったけれど。

20才の若者が考えていたこととは、とても思えません(笑)。

こう書けば歴史に残るだろうとか、そんなノウハウを持っているはずもないしさ。ただ、自分に恥ずかしくないものを書くようにはしていて、それが自然に残っていっただけですよ。僕のファンの方々もシングル盤の総売上を聞いて作品を好きになってくれたわけではないですしね。そんなことは何の意味もないとよくわかっている。僕もアルバム命で作品を作ってきたし。松田聖子に大ヒットしたシングルが何枚あっても、「制服」や(「赤いスイートピー」のB面/1982年)、「黄色いカーディガン」(アルバム『Candy』収録/1982年)が一番好きという人もいるわけだから(笑)。

歌謡曲へのアンチテーゼ

松田聖子さんでは、1人の女性シンガーが10代の終わりから20代にかけて、どのように成長していくか、年齢に応じてどんな曲を歌っていくべきか、作品を通してライフストーリー全体を構築していきました。こういった試みは稀有な例だと思います。

アイドルは小中高生くらいの年齢層をずっとターゲットにし続けていたんです。歌手が10代でデビューして人気が出ても、数年経つともっと若い別の誰かに入れ替わる。ファンも入れ替わる。その繰り返し。確かにこのやり方はアリだと思うし、このやり方に一番長けているのはジャニーズだと思います。でも、僕は松田聖子でアンチテーゼをやりたかったんです。

そう思われた理由は?

新陳代謝を繰り返すだけだったら、松田聖子の歌手生命も2〜3年で終わってしまうと思ったし、僕の仕事も終わってしまう(笑)。それだともったいないじゃないですか。だから歌手とファンが毎年ひとつずつ歳をとっていくことに合わせて、作品もひとつずつ歳を重ねた内容に成長させて、永遠にターゲットを維持しようと考えた。そういうやり方ができると理想的だなと思って、実は太田裕美を手掛けているときに挑戦し始めていたんです。

歌謡曲というフィールドで、演歌以外の女性シンガーが歳を重ねて、青春期のラブソング以外に何を歌うべきなのか。松田聖子さんや太田裕美さんは、そのモデルケースに間違いなくなったと思います。

確かにひとつの形は作ったけれど、誰もほかに同じことをできてはいないから、モデルケースにはなっていないんじゃないかな(笑)。シンガーソングライターの場合は、それが自然にできるんですよ。曲を書く自分が歳をとれば、作品も自然に歳をとっていく。ユーミンにしても、中島みゆきにしても、歳を重ねても活動していくことができたわけですからね。でも、歌手の場合は難しいんですよ。ただし、やり遂げれば一生、音楽で食べていけるようになるんですけどね。とはいえプロダクションによっては、なかなか理解してもらえないことも多かったな(笑)。

赤いスイートピー

バンド活動後は、作詞家として歌謡界にも進出。なかでも松田聖子に関しては「風立ちぬ」「赤いスイートピー」「渚のバルコニー」など、オリコンの24曲連続1位中17曲を作詞している。(写真提供:ソニー・ミュージックダイレクト)

「日本語の詞が世界的に流通すると思うのか」と聞かれて、「確率的にゼロではない」と答えたんです。

優秀なマネージャーとは?

今、期せずしてプロダクションのお話が出ましたが、本誌を発行している日本音楽制作者連盟は音楽プロダクションの団体ですので、これまで松本さんが出会ったプロダクションに勤めるマネージャーの方々のお話もうかがえれば。

マネージャーですごいなと思ったのは、アンクル・エフ(現ジャパン・ミュージックエンターテインメント)の藤岡(隆)さん。(渡辺プロダクション時代に)太田裕美を担当していて、会社を設立したあとはラッツ&スター。それとユイ(音楽工房)の後藤(由多加)さん。(吉田)拓郎と大ゲンカしたこともあったけど(笑)、優秀な人だと思う。アミューズの大里(洋吉)さんもそうですね。原田真二で僕と少し接点があったのち、サザン(オールスターズ)を育てたでしょう。それとサンミュージックの出版担当だった杉村(昌子)さん、東宝芸能で斉藤由貴を担当していて、今はキューブにいる市村(朝一)さんも、アーティストに対して説得力を持っていた人でした。あとはもう1人は、はっぴいえんどのマネージャー、石浦(信三)でしょうね。

その方々にも共通していた、優秀なマネージャーに必要な能力とは、どんなことでしょうか。

アーティストがやりやすい環境を整えてあげられること。それが第一でしょうね。またアーティストは孤立したがるものだから、人とのつながりを作ってあげられること。お金勘定はどうでもいいんですよ。そんなことは誰でもできるから。マネージャーにはアーティスティックな面を支えてほしいですね。

松本さんは大瀧詠一さんや細野晴臣さん、松任谷由実(呉田軽穂)さん、財津和夫さんなどを作曲家に起用し、ロックやポップスと歌謡曲の間にあった壁を取り払う役割も果たしました。さらにはそれがセールス的にも大成功を収めることになりました。

成功確率としてはすごく低かったと思いますが、なんとか切り抜けたというか、結果的にうまくいったというか。曲を書いた人たちがびっくりしたんじゃないかな。なんだか知らないけど曲を書いてくれと僕から言われて、書いてみたら1位になっていたわけだから(笑)。

実質上、プロデューサーの役割も果たしていたということですよね。

まあ、確かにそうなんだけど、プロデューサーと自分で言っちゃうと、責任が生まれてしまうのでね(笑)。僕ははっぴいえんどをやめた直後に、4枚のアルバムをプロデュースしているんです。南佳孝の『摩天楼のヒロイン』(1973年)とあがた森魚の『噫無情(レ・ミゼラブル)』(1974年)、岡林信康の『金色のライオン』(1973年)と『誰ぞこの子に愛の手を』(1975年)。4枚とも歴史に残る名盤だと評価してもらっているのですが、現実的にプロデュースでは食べていけなかった(笑)。でも振り返ってみると、特に南佳孝を発掘したことは大きかったと思う。彼は過小評価されている面があるんじゃないかな。作曲能力も演奏能力も歌唱力も高いし、声質がものすごくいい。僕は最近サム・クックばかり聴いているんですが、サム・クックみたいなシルキーでソフィスティケートされたソウルというのは、日本で誰かといったら、やっぱり佳孝なんですよ。

デラシネd?racin?

クミコwith風街レビューとして、様々なアーティストが作曲を担当したアルバム『デラシネderacine』を2017年9月にリリース。第59回日本レコード大賞優秀アルバム賞を受賞した。

アーティストは孤立したがるものだから、人とのつながりを作ってあげる。マネージャーにはアーティスティックな面を支えてほしいですね。

クミコの『デラシネ』

最近でもクミコさんの『デラシネ』を、松本さんが全作詞、冨田恵一さんがサウンドプロデュースという形で制作されています。

クミコというシンガーは本当にモデルのない人で、ある意味オリジナルな存在なんですよ。洋楽ファンからはっぴいえんどファンになった人たちも、クミコは解釈しようがないみたいで(笑)。「なんで松本さん、クミコにそんな入れ込んでいるんだろう」と思われているようですね。

最初に松本さんがクミコさんをプロデュースしたとき(『AURA』で全作詞も担当/2000年)、シャンソンとも違うし、形容に困った記憶があります。

そうだろうね。しいて言えば、一番近いのは浅川マキだと思う。僕は浅川マキも好きで、できれば話をしたいなと思っていたけれど、はっぴいえんどの頃、一緒のステージに立ったときに怖くて話せなかったな(笑)。

(笑)いずれにせよ、『デラシネ』には松本さんが描く大人の女性の集大成のような詞がそろいました。

日本で60才を過ぎたシンガーが新作を出そうと思っても、なかなか機会がなかったからね(笑)。少なくとも僕が若い頃には演歌以外、あんまり例がなかったと思う。そんななかで、とてもポップなアルバムを冨田さんと一緒に作れたのは良かった。もうこれでクミコも一生食うのには困らないと思う(笑)。そういう仕事ができたことを、僕はスタッフの1人として幸せに感じます。

作曲家については、松本さんがもっとも信頼していたライター・編集者の故川勝正幸さんに捧げるようなセレクトでした。

横山剣さんと菊地成孔さん、この2人は川勝イズムで選びました。川勝さんが生きているとき、どうしても松本さんに横山剣さんと一緒にやってほしいと言っていたからね。本当は彼が生きている間にかなえようと思ったんだけど、かなわぬ夢になってしまって…。菊地さんの場合は、僕がネットサーフィンをしているときに、「なんだ、この人?」と発見したんです(笑)。面白い人がいるなと思って彼の曲を聴いていたら、あとで川勝さんが入れ込んでいたミュージシャンだと知ってね。僕の夢もかなったし、川勝さんの思いもかなえられたから、天国に向けてはなむけができたと思います。

PROFILE

1949年生まれ。作詞家、ミュージシャン。エイプリル・フールを経て、1969年に、細野晴臣、大瀧詠一、鈴木茂とはっぴいえんどを結成。日本語ロックのパイオニアとして、今でも世界中に熱狂的なファンがいる。1972年に解散後、オリジナル・ムーンライダーズに参加。同時に、作詞家、音楽プロデューサーとしても活躍。作詞家としては、太田裕美「木綿のハンカチーフ」(1975年)、近藤真彦「スニーカーぶる〜す」(1980年)、寺尾聰「ルビーの指環」(1981年)、KinKi Kids「硝子の少年」(1997年)、また松田聖子の24曲連続オリコン1位中17曲を手掛けるなど、無数のヒット曲を送り出している。2017年9月にはクミコwith風街レビューとしてアルバム『デラシネ deracine』をリリースし、第59回日本レコード大賞優秀アルバム賞を受賞。2017年に紫綬褒章を受賞した。

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