音楽未来

2017.03.15

INTERVIEW

ORANGE RANGE

vol.37 ORANGE RANGE
―沖縄から全国へ 15周年―

2016年に結成15周年を迎えたORANGE RANGE。高校生でCDデビューを 果たした彼らは、その自由な音楽性で当時のシーンに一石を投じた。 同じ目線で向き合ってくれた周りの人々に支えられながら大人になり、 自主レーベルも経験したことで、人任せではない活動ができていると語る。 HIROKIとNAOTOに15年を振り返ってもらい、バンドを続けてこられた理由を探った。

text:フジジュン

 昨年で結成15周年を迎えた沖縄出身の5人組ミクスチャーバンド、ORANGE RANGE。まだ高校生だった2001年に現メンバーが揃い、翌2002年にはミニアルバム『オレンジボール』でインディーズデビュー。さらにその翌年となる2003年にはシングル「キリキリマイ」でメジャーデビューと、驚異的なスピードでシーンの階段をかけ上がると、同年にリリースしたセカンドシングル「上海ハニー」で大ブレイク。その後も「ロコローション」「花」「キズナ」「チャンピオーネ」と大ヒット曲を続々と輩出し、彼らは時代の寵児となった。
 結成15周年を迎えた現在も、彼らのどこまでも自由でポップな姿勢や音楽性は変わることなく、昨年7月には大御所ミュージシャンから中学校の吹奏楽部までレンジが広すぎるラインナップとのコラボレーションによる、結成15周年記念ベストアルバム『縁盤』をリリース。そして昨年から続く全国47都道府県ツアーを経て、今年2月には8年振りとなる日本武道館ワンマンを成功させるなど、その唯一無二な存在に再び注目が集まっている。HIROKIとNAOTOに順風満帆なだけでなかった15年を振り返ってもらいつつ、彼らを支え続けてきたマネージメントやレコード会社への想いを聞いた。

どのジャンルにもハマってないから、何しても良い自由さもあるし。今やるべきことを迷わずやってる。

とにかく攻めてきた15年

昨年、結成15周年を迎えたORANGE RANGE。今年2月にはインディーズ盤『オレンジボール』をリリースして丸15年となる、CDデビュー15年を迎えました。

HIROKIここ数年、15周年に向けての助走はしてきましたけど、そこまで意識することもなくて。全国47都道府県ツアーをまわって、お客さんがあたたかい空気で迎えてくれたりというところで、“祝ってもらってるんだな”と喜びを感じました。

NAOTO僕もライブをやっててお客さんが一緒になって歌ってくれてるのを見て、長くやってきたんだなと実感しましたね。

音楽との向き合い方で、15年前と変わってきた部分はありますか?

NAOTO個人的には変わらないです。ライブだと単純に体力が落ちたなと思って、昔みたいなクオリティを保とうとがんばってますけど(笑)。音楽との向き合い方は変わってないと自覚してます。

あの頃とくらべて、新しい音楽に出会う喜びやドキドキは減ってるでしょう?

NAOTOそこは鈍くなるんで、意識して壊すようにしてます。やりたいことがあったときにやり方がわかってると、変にまとまったり、正攻法にいっちゃいがちなんですけど。それだと自分自身も丸くなっちゃうし、面白くないですからね。昔は正攻法をやるにもやり方がわからなかったから、ラッキーパンチもめちゃくちゃあったと思うんですけど。とにかく攻めてた、あの感覚が大事だと思うから。どうにか正攻法とは違うやり方にしたいという気持ちは、昔も今もありますね。

では、ヒストリー的な話も聞きたいのですが。2001年にORANGE RANGEを結成、2002年にインディーズデビュー。事務所に所属するに至る経緯は?

NAOTO地元に「SPICE」というCDショップ兼練習スタジオがあって。そこはインディーズの流通とかやってたんですけど、原盤から作ってCDを出すというのがやりたかったみたいで、一番最初に僕らに声をかけてくれたんです。

HIROKIライブを観に来てくれて、仲良くなって、って流れでCDを出して。時間で言ったらすごい短いよね?

NAOTO知り合ってから半年くらいでCD作り始めたんですけど。春に知り合って、次の春にはCD出すみたいな感じで。それが全部、高3の1年間の出来事です(笑)。

ORANGE RANGE

2002年2月にリリースされたミニアルバム『オレンジボール』でインディーズデビュー。写真は沖縄盤のジャケット。

高3のときは年間70本くらいライブをやってて。何がすごいって沖縄県内だけなんです(笑)。CDを出してなかったら高校の良い思い出で終わってたよね。

沖縄から全国区の存在へ

オリジナル曲を作り始めたのは、YAMATOさんが加入してからですよね?

HIROKIそう。その翌年の2月には『オレンジボール』を出していて。

NAOTO高3のときは年間70本くらいライブをやりまくってて。何がすごいって沖縄県内だけなんです(笑)。

その頃はプロになりたいとか、音楽でメシ食いたいといった野望はあった?

HIROKIそういう野望を語る人たちじゃないし、友達のバンド2〜3組とライブしたり、仲間うちだけで成立しているものだったから、考えたこともなかったです。

NAOTOSPICEでCDを出してなかったら高校の良い思い出で終わってたよね。

HIROKICDが出てからは、いろんなことがすごいスピードで決まっていって、決まったものに対してついていく感じでした。ま、別に失敗してもいい年齢だし、失うものも何もないですからね。

NAOTOメジャーも事の重大さがわからないまま、「BOOM BOOM SATELLITES好きでしょ? 同じレーベルだよ」と言われて、「お願いします」って感じで契約したし(笑)。

HIROKI覚えてるのは、レコ発イベントとかやるときに、地元のテレビ局でスポットを打ったんです。ただの高校生バンドがライブをやるのに、テレビで告知するのが画期的で。県内ではそれによっての盛り上がりみたいなのもあったんだと思います。

NAOTO当時はMONGOL800とか地獄車、HYとか、沖縄のバンドが盛り上がってて。そういうブームの最後らへんにいられたのも、興味を引いたと思うんですよね。

当時、青春パンクブームもあって、バンドが全国的に盛り上がってましたが。あのころのブームはどう見てました?

HIROKIうちらも対バンはメロコアとか青春パンク系が多かったんですけど。地域性もあるのか、ジャンルって概念がなくて。周りのバンドのことはあまり気にしてなかったです。ま、自分たちが浮いてるのはわかってましたけどね(笑)

NAOTO那覇だとまた違うと思うんですけど、コザはメタルやラップのシーンもあって、全部一緒くただったから。

HIROKIでも、時代のタイミングってありますよね。あの時代にこんな軽薄なバンドって、真逆のベクトルですから(笑)。

その後、「キリキリマイ」でメジャーデビュー。「上海ハニー」ですぐブレイクして。環境や状況も変わったでしょう?

HIROKIあんまり忙しいって感覚はなかったかもしれない。感覚あった?

NAOTO俺とRYOは学生だったから、沖縄と往復しなきゃいけないのが大変でした。

HIROKIみんなが「打ち上げだ!」って言ってるとき、空港に直行してたもんね。

NAOTOそう。金曜の夜中に東京に来て、土日で録音や取材やって、月曜の朝イチで沖縄に帰って遅刻して学校に行ったり。

スタッフたちの気づかい

音楽以外に考えなきゃいけないことも増えたと思うけど、そこは事務所やレコード会社がフォローしてくれて?

HIROKIはい。メンバーが素直だから、スタッフ次第ではつぶれてたかもしれないし、ヘタすれば東京に出てきただけで押しつぶされてたかもしれないんですけど。スタッフさんがメンタルの部分ですごく気をつかってくれました。

NAOTOディレクターもすごい良い人で、「好きにやれ!」って言ってくれたし、一緒にバカなこともできてノリも良くて。レコーディングで煮詰まったとき、「バスケットやろうぜ!」と言ってくれたり、ストラックアウトのおもちゃをやったり(笑)。出前じゃなくて手作りのお鍋を作ってきてくれたり、小さな気づかいがうれしくて。スタッフにはすごい恵まれてましたね。

音楽だけでなく、テレビとか芸能的なお仕事をしなきゃいけないときもあるけど、それはストレスじゃなかった?

HIROKI苦手なメンバーもいれば、好きなメンバーもいて。今は大人になって言いたいことも言えるけど、当時は心に溜めてる人もいたと思います。でも、そのへんのバランスも大人が取ってくれてたんじゃないかな? 僕自身も何をやってるのかわからない仕事もあったし、自信を持って発言できないときもあったし。

ORANGE RANGE

2004年のセカンドアルバム『musiQ』ではダブルミリオン達成。『musiQ』よりも振り切ったという2005年10月にリリースされたサードアルバム『ИATURAL』でもミリオン認定。

結構めちゃくちゃやったつもりだったのに受け入れられて、“え!?”と思ったのが決定打で。“もう何やってもいいんだ!”と思って。

自分たちのスタイルの確立

曲もタイアップが多かったけど、自分たちのやりたいことができないとか、そういったストレスはなかったですか?

NAOTO今はそんなこと絶対ないけど、あのころはコンペじゃなくて、「ORANGE RANGEに決まったんで、任せます」って感じで、そんなに苦労はしなかったです。アニメは要望も多くて、寄せていく作業がしんどいこともあったけど。それが自分の引き出しを増やしてくれた部分でもあるし。

個人的にはアルバム『ИATURAL』以降、本当の意味でのORANGE RANGEらしさが確立された気がするんです。その後のアルバムに『ORANGE RANGE』とセルフタイトルがついたのも自信の表れかな?と。

NAOTOたしかにセルフタイトルをつけたのは、そういう意味でした。『musiQ』が結構めちゃくちゃやったつもりだったのに受け入れられて、“え、こんなアルバムが!?”と思ったのが決定打で。“もう何やってもいいんだ!”と思って、さらに振り切ったのが『ИATURAL』でした。そこで“「なんでもあり」がキャラになってるんだ”と気づいたら、やりたいことがどんどん出てきて。セルフタイトルにするのは、『ИATURAL』のときでも良かったんですけど、忘れてたんです(笑)。

HIROKIもっと安パイに行こうと思えば行けたんだろうけど、あのひねくれ感がこのバンドを象徴してますよね(笑)。

NAOTO大人に「もっとポップな曲も入れたら?」と言われても、「違うんです! 今ここでカウンターを打って、それをみんなが買うってヤバくないですか?」って半ば強引に押し切って(笑)。「前作から1年半くらい空けよう」と言われても、「いや、『musiQ』の余韻が残ってるうちに出しましょう!」って。ああいう作品をJポップとして出すというのは、今後できないだろうと思ったし、ちょっとしたいたずら心もあって。オルタナっぽい曲ばかり、たくさん書いたんです(笑)。

HIROKIあれ以降はストレートを投げても変化球に聴こえたりするだろうし、何をやっても大丈夫になりましたよね。正攻法の曲を出しても、“らしくないねぇ。でも逆に…”みたいな(笑)。

自主レーベルの立ち上げ

わはは。「1周まわって…?」って、勝手に深読みしてくれてね(笑)。2010年には、自主レーベルSUPER ((ECHO)) LABELを立ち上げます。

NAOTO今はソニーも配信やYouTubeをやってますけど、当時はそれができない不自由さもあって。せっかく音楽性が広いんだから、もっと幅広くいろんなことをやったほうがいいんじゃないか?と思ったんです。そしたら、ソニーがすぐに配信とYouTubeを始めたから、“え?”って。

HIROKI俺たちのなかでは、そこも独立する理由としてはデカかったのに、“やめた瞬間にやるんか〜い!”みたいな(笑)。別にソニー在籍時に窮屈だったこともないし、やりたいこともやれてたんで、あのままでも良かったんですけどね。

NAOTO気持ち的には“今だからこそ、自分たちを窮地に追い込んでみたい”みたいなところはありました。窮地に追い込まれたら火事場のクソ力みたいなものが出せるんじゃないか?って気持ちもあったんですけど。いざやってみたら、思ってた以上に大変で! 音楽だけ作ってれば良いって状況じゃなくなって、ソニーへの感謝の気持ちも改めて生まれました。

具体的に大変だったこととは?

NAOTO手探りの状態だったので、プロモーションを外注で雇ったり、MVを作るのに“こんなに高いの!?”って驚いたり。

HIROKIワクワクもあったけど、不安のほうが大きかったよね。ひとつひとつの責任の重さもハンパじゃなかったから。

ORANGE RANGE

バンドの方向性に確信を持ち、2006年にセルフタイトルのアルバム『ORANGE RANGE』をリリース。

自主レーベルを経験したことで、今何をやってるかを理解したうえで進められてる。人任せでなくやれているのは、あのときの経験値があるからですね。

続けられるたくましさの源

その後、SUPER ((ECHO)) LABELはビクターと業務提携をします。

HIROKI最初は僕ら主導で原盤も作って、あとをサポートしてもらうって感じでやってたけど、一緒にやってみたら、本職の人たちはすげぇな!って。結局ね(笑)。

NAOTOだから、今はどんどんビクター主導になってきていて、制作もイーブンみたいな感じになってます(笑)。

HIROKIでも、自主レーベルを経験したことで、今何をやってるかをちゃんと理解したうえで進められてるというのが大きくて。会議の時間も多いし、何かを決めるときも人任せでなくやれているのは、あのときの経験値があるからですね。あと、メジャーだけど細々とやってるから、インディーズ感もあるし(笑)。

NAOTOバンドマンに「インディーズでしょう?」って言われて、「ま、そんなもんだよ」って、お茶を濁しています(笑)。

HIROKIそれで「すごいね!」とか言ってもらってるんだから、ひどいよね。ビクターにプロモーションとかさんざんやってもらって、手柄を奪うみたいな(笑)。

でも、ここからどんな状況になっても続けられるたくましさもつきましたね。

HIROKIそうですね。状況に左右されるような、フラついた感じはないです。

NAOTOどのジャンルにもハマってないから、何しても良い自由さもあるし。今やるべきことを迷わずやってる感じで、これからもうまくやっていけそうですね。

15年続けて、8年振りの日本武道館公演ができたっていうのも、すごく幸せなことだと思うんですが。最後に今の状況に思うことは?

HIROKI8年前と今とでは、武道館からの景色も決して同じじゃないし。ひとつひとつが当たり前じゃないことや、続けることの難しさや大変さもわかったうえでステージに立てるというか…とはいえ、何かを背負ってみたいな気持ちはなくて。結果、変わらず楽しむってのが一番だし、それを見て楽しんでもらうっていうのがシンプルな構造で良いのかなと思ってます。これからも変わらず、バンドや音楽を楽しんでいきたいですね。

PROFILE

2001年に沖縄で結成。2002年2月22日にミニアルバム『オレンジボール』でインディーズデビュー。翌年リリースされたシングル「キリキリマイ」でメジャーデビューして以降もヒットを連発、瞬く間にブレイクを果たした。2010年7月に自主レーベルSUPER ((ECHO)) LABELを設立し、インディーズに活動の場を移す。2012年1月からはSPEEDSTAR RECORDSと業務提携を開始。2016年に結成15周年を迎え、2017年2月には8年振りとなる日本武道館公演を成功させた。7月16日(日)広島クラブクアトロを皮切りに全国ツアー“RWD← SCREAM 017”がスタート。ファイナルは8月26日(土)Zepp Tokyo。

http://orangerange.com/

RELEASE INFORMATION

collaboration best album『縁盤』

SPEEDSTAR RECORDS/VIZL-1013(限定盤)、VICL-64609(通常盤)

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