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2016.11.15

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証言「1986年」その1 今野多久郎さん

証言「1986年」その1 今野多久郎さん
打楽器奏者、音楽プロデューサー

1年の期間限定バンドとして1986年を駆け抜けたKUWATA BAND、そのリーダーだったのが、のちに『イカ天』をプロデュースし、「BARKS」を立ち上げた今野さんだ。LPからCDへ時代が切り替わった激動の年、「1986年」に現場で起こっていたことを教えていただいた。

text:吉田幸司 photo:内海裕之

うごめいてましたね。「今日より明日がいいんだ」、
みんなが間違いなくそう思ってましたから。

桑田と喫茶店で、今度CDになるらしい、どうなるんだろうねって

KUWATA BANDは1986年を象徴するバンドですが、そもそもはサザンオールスターズの原由子さんの産休をきっかけに、1年の期間限定で結成されたんですよね。

それが大きなきっかけだと思うんですけど、サザンオールスターズの『KAMAKURA』(1985年)ができあがって。大作中の大作だったので桑田本人もいろいろ考えてたんでしょうね。実は、楽器車1台で身軽に、日本中ライブしてまわりたいねっていうのがあったんです。それを12月の原坊の誕生会のときに話して。

1985年の12月ですよね?

そう。だからすごいスピードですよね。1985年の12月に「バンド作りたい」「楽器車で日本中まわりたい」っていう話をして、1月3日からリハーサル(笑)。で、最初のシングルが出たのが4月ですよね。最後6月にアルバムがギリギリできあがったんですけど、最後の何日かまったくの徹夜状態でスタジオにずっとこもりっきりだったんですよ。それで「1月1日からリハーサルやってれば今頃できてたのに」って、わけのわからない話をしてた記憶があるんですけどね(笑)。

そのエピソードを聞くだけでも、なんだかすごく楽しそうですね(笑)。

今じゃ考えられないですけど、はじめは桑田がスケジュール帳を持ってリハーサルスタジオとか押さえるっていうのをやったんですよ。2〜3回やったらさすがにマネージャーに替わっちゃったんですけどね(笑)。で、世の中的にちょうどCDができてくるときなんですよ。

この年にLPの生産枚数と逆転します。

だからはじめは全部アナログなんですよ、KUWATA BANDは。それで、その話を桑田と一緒に代官山の喫茶店でしたおぼえがあるんですよね。なんか今度CDになるらしいぜって話になって。ジャケットどうなるんだろうねとか、歌詞カード読めるのかなって。どういうものか全然わからなかったので。1985〜1986年は、いろんなミュージシャンとCDってどういうふうになるんだろうねっていう話をした記憶がありますね。

現場の人たちにも戸惑いがあった。

それと、音。当初のCDの音はなんか良くないのが多かったですから。エンジニアの方たちも試行錯誤してたと思うんです。あと、アートワークの方たち、仕事どうなるんだろうとか。音の制作自体も、音が上がったあとにかかわる方たちもずいぶん迷ったというか、新しい部分にちょっと面食らって、悩んだ時代ですよね。

巨匠の一番弟子の方たちがエネルギーを出し始めた時代

そういうなか、KUWATA BANDはやんちゃなロックをぶちかましました(笑)。

ですね(笑)。さっき言ったように、桑田ももう『KAMAKURA』で一度全部出し切っちゃったようなところがあって。なので、たぶん気楽に、洋楽のバンドの雰囲気に憧れたり、ストレートな音でライブしたいっていうのがあったんですね。メンバーもそこに乗った。基本的に男の子なんですよ。30才の男の子みたいな。

10代でも20代でも、40代でも50代でもない、あくまで30代の男の子として。

その頃ってたぶん40才くらいなんですよ、一番上の方たちが。それより上にもうちょっと違うタイプの方たちはいらっしゃったけど、吉田拓郎さんも、アミューズの大里さん(創業者)たちも40才で、新しくできあがってきた、いわゆる音制連的な動きの方たちがみなさん40才くらいだったんです。僕らは30で、上見ても40。世の中には30過ぎてロックやってるなんてバカじゃないかっていう風潮がまだありましたから。そういうなかで、30代でやんちゃやっていいじゃないかっていう(笑)。だからライブガンガンにいこうぜって。

時代が変わっていくなかで、やりたいことをやったわけですね。

で、気がついたら50本以上のライブが決まってた(笑)。でも「BAN BAN BAN」は当時、初登場が20位なんですよ。

最高位は3位ですが、初登場は20位。

で、「え、20位かよ、ツアー50何本あるんだぜ?」みたいな危機感があって。でも今じゃあり得ないと思うんですけど、そこからどんどん上がっていって3位になって。そのあとはガーッといったので、ライブはおかげさまでドドドドッて。でも2ヶ月半ちょっとで50何本って、今考えたらあり得ないです、あのスケジュール(笑)。

チャートがどんどん上がっていった理由は何だと思います?

もちろん桑田の楽曲の良さっていうのが一番だと思いますけど、たぶん、あの時代、洋楽的にはイギリスのポップロックみたいなのがきてて。いわゆるロックバンド!みたいなのは少し落ち着いちゃって、どっちかっていうと日本のなかではちょっと繊細な方向にいきだしたような時代。そこになんかギャーッ! ストレート!!というのが出てきたっていうのがひとつあったとは思います(笑)。あと、僕はおいといても、メンバーがうまかったんですよ。

リーダーがなにをおっしゃいます。

いやいや、僕はメンバーを集めただけなので。チーママですから(笑)。やっぱりうまかったですね。みなさんすごかった。

時代はおニャン子が全盛で、ロックはイギリス系が全盛、そんななかに違ったテイストが出てきて最初はみんな戸惑ったけど、やっぱりすごいじゃんってなったと。

それはあると思いますね。あとライブが、30なのにやたらやんちゃな少年ぽいっていうか、暴れてるライブをやってたんですよ。その2ヶ月半でほぼ全都道府県行って、最後NHKホールかな――あんまり記憶がないんですよ、実は。ハイテンションすぎて(笑)。

ライブで人を引きつけたんですね。

あとは周りにいた、写真を撮ってくれた人たちとか、衣装を考えてくれた人たちとか、イメージを作ってくれた人たちも素晴らしかった。その方たちは今、みんなトップのクリエーターになってますからね。カメラマンの三浦憲治さんとか、スタイリストの大久保篤志くんとか。

時代を変えようとしていた新進のクリエーターたちが出てきた。

巨匠がいたんですよね、70年代に。その一番弟子の方たちが新しいことをできるっていってエネルギーを出し始めた時代なんです。だからみんな燃えてたんですよね。

まさに時代が変わる瞬間だった。

うごめいてましたね。もちろんそこからバブルになっていくんですけど、「今日より明日がいいんだ」、みんなが間違いなくそう思ってましたから。来週何しよう、1ヶ月後何しよう、半年後何しよう、来年何しようって考えていた時代なんで。そういう意味ではみんながワクワクしてましたね。

証言「1986年」その1 今野多久郎さん

ハードもソフトも両方新しい時代に入って、音楽で新しい何かを作ろうという、ものすごい気合いをみんなが持ってた。

どんどん新しい動きが出てきてるし何でもありみたいなところがあった

音楽市場規模は3千億くらいでしたけど、右肩上がりでの3千億だから、その先のことを考えるとワクワクしかないという。

落ちると思ってませんでしたからね。テレビも歌番組がゴールデンタイムに2つあったりとか、地方に行ってもラジオ局がどんどんできるし。イケイケですよね、とにかく。投資もガンガンきて。まさにハードもソフトも両方新しい時代に入って、音楽で新しい何かを作ろうという、ものすごい気合いをみんなが持ってたと思いますね。

戸惑いの反面、期待もあったという。

そう。ワクワクしているんですよね、半分。何が今度変わるんだろうとか。どんどん新しい動きが出てきてるし。どうなっていくんだろうと思いながら、でも好き勝手やってもいいっていう雰囲気もあるから乱立しているというか、何でもあり、どんどん新しいことやろうみたいなところがあって。そこは大きいですよね。

その時代に今と通じるところがあるとすれば、どんなところだと思います?

どうかな…でも、その頃はまだバブル直前だから、実はそんなにすごくなかったんだと思うんですよ。わかりやすく言うと、音楽業界でベンツ乗ってる人ってあんまりいなかったし、それこそベンツ乗ってくると、あいつベンツ乗ってるぞって話題になるくらい(笑)。もちろん売れてる人もいたし、売れない人もたくさんいましたけど、エネルギッシュにいいライブをやっていると評価されていった時代。結局そこがいいとみんな「あ、いいな」ってなっていくし。

つまり、バンドの本質は変わってない。

変わってないですね、それと、やっぱり音楽好きだったっていう。僕、2000年にソフトバンクでBARKSを立ち上げたんで、そこからのITの方たちの考え方っていうのは少なからず知ってるつもりでいるんです。まさに2000年頃から音楽を好きで仕事にしている人と、音楽を使ってビジネスをしようとする人がすごくはっきり分かれたと思うんです。時代としては持ちつ持たれつで、どちらが良い悪いではないし、今は両者がとても近いフィールドで仕事をしているんですね。ただ、音楽をやる立ち場にいる側としては、やっぱり音楽が好きな方じゃないと会話が通じないんじゃないかと思って。

それはすごく同感です。

だからそこは絶対外しちゃいけないっていうか、偉そうに言うと、音制連のプロダクションの方たちも、今だから、今さらながら音楽好きな人だけでやってほしいなって思いますよ。いや、お金はもうけてほしいんですよ、新しいテクノロジーもガンガン活用して、還元してほしいんですけど、モチベーションとしては音楽が好きだから、この音楽をみんなに聴かせたいとか、こいつらなかなかお客さん増えないけど今がんばってるから手伝ってたくさんのお客さんに見せたいとか、そうであってほしい。やっぱり音楽ありきですよね。あと、作り手の人間性とか。バンドって人を信じてないとできないですから。俺の仲間は最高だぜ!って思ってないとやってられないですからね、スタッフ含めて。

今は音楽バブルではないので、逆に音楽が好きな人が携われる、その意味では1986年頃と同じなのかもしれないですね。

そうなんです。かつ、音楽を聴きに来る人も音楽が好きだから来るので。やっぱりいい音楽を聴きたいんですよ。それは変わらないと思うんですよね。

PROFILE

1956年生まれ。スペクトラムのパーカッショニストとして1979年にデビュー。解散後はライブやスタジオでバックミュージシャンとして活動し、1986年にはKUWATA BANDのリーダーとして活躍。その後は深夜テレビ番組『イカ天』のプロデュース、音楽サイトBARKSの立ち上げなど、様々な分野に進出。現在は音楽プロデューサー、打楽器奏者、タレント、ラジオDJなど幅広く活躍中。

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