音楽未来

2016.07.12

INTERVIEW

中川 敬

vol.33 中川 敬

ソウル・フラワー・ユニオン

-音楽闘争-

ほかに類を見ない音楽家であり、活動家でもある中川敬。彼がソウル・フラワー・ユニオンの前身となるパンクバンドのニューエスト・モデルを結成してから30年が経った。これまでを振り返ってもらいつつ、DIY性の強い彼に、あえてマネージメントについても語ってもらった。

text:宗像明将

自分たちでもコントロールしきれない、若き日の情熱。ソウル・フラワー・ユニオンの前身バンド、ニューエスト・モデルの2枚組ベスト盤『ザ・ベスト・オブ・ニューエスト・モデル 1986〜1993』にはそんな言葉が似合う。ニューエスト・モデルとは音楽的な変化の連続であり、日本のミクスチャーバンドの最高峰であるソウル・フラワー・ユニオンの前哨戦でもあった。  そんなバンドを主導してきた中川敬は、言動は直截的なのに、音楽面では様々な要素を柔軟に吸収してきた人物である。彼の目に映るニューエスト・モデルとはどんなものだったのだろうか。マネージメントとの関係を含めて、これまでの30年を振り返ってもらった。

あまりにロックが好きすぎて、とにかく世界にないロックを作りたかった。

ニューエスト・モデル誕生まで

今回のニューエスト・モデルの音源をまとめて聴いてみた感想はいかがでしたか?

ニューエスト・モデルのファンになったよ、思ってた以上にいいバンドやった(笑)。ベスト盤とトリビュート盤が出るから、今回振り返る機会になって、自分のなかでいろいろ整理された。結論めいたことを言うと、俺と奥野(真哉)にとっては「初期ソウル・フラワー・ユニオン」やね。ニューエスト・モデルとメスカリン・ドライヴの合体で始まったバンドやけど、もうメスカリン・ドライヴのメンバーはいない。このベスト盤が出て、3年前のソウル・フラワー・ユニオンのベスト盤(『ザ・ベスト・オブ・ソウル・フラワー・ユニオン 1993〜2013』)とあわせて、時系列での流れが見えやすくなったね。「なんか変なバンドやと思ってたけど、こういうことやってんな」っていう(笑)。

ほかのシンプルなパンクバンドとは違って、ニューエスト・モデルがこれだけ音楽的な変化をしてきた理由は何だったのでしょうか?

結局、10代から20代にかけての俺の音楽の変遷やね。もともと60sマニアだった俺が、15才から大阪ミナミのロック喫茶の常連になって、ソウルミュージックやグラムロックや初期パンクを教えてもらって。17才のときにはロック喫茶の店員になって、ハタチから中古レコード屋「キングコング」の店員をやって…常に音楽の鳴ってる場所にいた10代。子供の頃は「モモエスト」(山口百恵ファン)で歌謡曲少年。16才からライブハウスのステージに立ったけど、その当時は単純にギタリストでね。ジョニー・サンダースやキース・リチャーズが好きで、ローリング・ストーンズやニューヨーク・ドールズ、村八分のコピーバンドから始めた。ずっとボーカルの横で弾いてたけど、19才ぐらいで「自分で歌いたい」と思って。ザ・ジャムやスモール・フェイセスみたいなモッズサウンドをもっとパンキッシュにする感じのバンドがやりたくなって、ローンでリッケンバッカーを買った。1985年12月、その当時手伝ってたバンドが解散した日に、高校生の頃に一緒にやってたベン(ds)と高木(b)に電話したんよ。「やるぞ。今度はトリオ。俺が歌う」。ビートルズの『リボルバー』の曲をやったり、モータウンの曲をパンキッシュにやったり、オリジナルもあって、1986年3月にライブ活動を始めた。ニューエスト・モデル始動。子供の頃から聴いてきた音楽の原風景を少しずつ出していく過程やね。でも、メンバーはアナーキーやARBやクラッシュが好きで、中間としてのザ・ジャムやったという感じ。

中川さんが「中間を取る」というイメージがまったくないんですが…。

常に中庸を取って「まあまあまあ」っていう人生やけどね(笑)。

絶対嘘です(笑)。ともあれ、最初はザ・ジャムだったんですね。

ザ・ジャムは、7インチシングルのB面にモータウンの曲の荒々しいカバーが入ってて、高校の頃からモータウンが大好きやったから「これこれ、この感じ!」と。

しかも、ニューエスト・モデルの活動期間はバブル時代なのに、全然そんな雰囲気がないです。時代に背を向けたような音ですよね。

技量的にこういうことしかできなかったのもあるけどね。俺が19才で、ドラムとベースは17才、音楽の趣味は幅広いけど「やれることからやっていこう」という感じで始まった。でも、トリオで活動してたら半年で疲れちゃって、「もうひとつメロディ楽器を入れたいなぁ」と。そこでオルガン。スモール・フェイセス、ドアーズ、ストラングラーズ、初期のエルヴィス・コステロ&アトラクションズ、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、ジミー・スミスも好きやったし、「オルガンを入れたらそのへんにないパンクバンドになるぞ」というコンセプトやね。そこに奥野っていう、ライブに来てるお客さんにたまたま大阪のレコード屋で会って「喫茶店に行かへん?」って誘って、話してみたら、「昔ピアノをやったことがあります」とか言う。まあ、のちに嘘であることが発覚するんやけど(笑)。で、1986年10月から、ギター&ボーカル、ベース、ドラム、オルガンの4人編成のニューエスト・モデルが誕生するわけ。

ソウル・フラワー・ユニオン

ソウル・フラワー・ユニオンの前身でもあるニューエスト・モデル。1985年結成当初はラウドなパンクバンドだった。

スタイルを変えずにメジャーへ

初期はマネージメントなしで、完全に自分たちですよね。

マネージメントがつくのは、1989年にメジャー契約してからやね。1988年まではフライヤーとかで「ソウルフラワーオフィス」って名乗ってたけど、自宅の電話番号やからイタ電だらけやったよ(笑)。「ニューエスト・モデル、つぶす!」とか。パンクの世界(笑)。

メジャーの誘いが来るようになったのはいつからですか?

1987年末ぐらいからかな。1988年には、レコード会社各社の人がバイト先のキングコングにまで来る。当時は「俺らパンクはメジャーでは出さない。興味ないし」って感じやったし、メジャーに行くのは単純にカッコ悪いと思ってた。当時はバブルやったし、「バイトしながらやっていくんや」と思ってたし、まあ、のんきやったね。

メンバーがそう思っているのとは裏腹に、ニューエスト・モデルはメジャーの争奪戦になるわけですね。

ニューエスト・モデルもメスカリン・ドライヴも誘いは全部ことわってたんやけど、ある段階でヒデ坊(メスカリン・ドライヴの伊丹英子)と、条件を出してみようかということになった。「関西在住のまま、リリース作品も時期も自分たちで決めて、外部プロデューサーは使わない、ニューエスト・モデルとメスカリン・ドライヴのソウルフラワーレーベルごと契約」と条件を決めた。それなら問題ないからね。すると、バンドブームに乗り遅れたキングレコードが全部飲んだ(笑)。上から「とにかく当たるバンドを探してこい!」とか言われてて、かわいそうなことにニューエスト・モデルに目をつけちゃってね(笑)。

なぜニューエスト・モデルがメジャーの争奪戦になったと思いますか?

お客さんがどんどん増えていってたからね。ライブをやるごとに動員が増えていった。『宝島』や『DOLL』や『FOOL'S MATE』が取り上げてくれたし、ファーストもセカンドもインディチャートのトップまで行ってた。へたくそな演奏やったけど、自信もあった。22才の俺は、さすがにそれを俯瞰できてなかったけどね。

当時のメジャーへの感覚はどういうものでしたか?

「大企業の太鼓持ちをやりたくない」というコンセプトがあって、ストレートエッジ的な感じやったんよね。キングレコードがCMのタイアップを持ってきてくれても、全部蹴ってる。当時、メジャーデビューすると必ずNHKオーディションを受けるんやけど、「誰にもの言ってるんや?」という態度で受けなかったしね(笑)。若かったし、そんな自分たちがカッコいいと思ってたし、「アティチュードも含めて、これから新しい文化を作るんや」と思ってた。まさに若さやね。そんな感じでやってたからこそ、(阪神・淡路大震災の)避難所や寄せ場で堂々とやってる20代の俺らがいたんやとも思うしね。でも、スタッフには迷惑かけたなと思うよ(笑)。

最初の事務所に入ったきっかけは何でしたか?

それまでレコードのディストリビューションをやってた会社で、今後ソウルフラワーレーベルに特化してやっていくって言ってくれたからね。

ソウル・フラワー・ユニオン

メジャーを離れ、再びインディーズになったソウル・フラワー・ユニオンは、むしろ活動が精力的になり、世界にも出向いた。

勘違いも含めて、揺らぎがまったくない。「次は民謡! 日本のパンクバンドにここまで踏み込んだのはいないぞ!」って、ずっとそういう感じやったね。

ソウル・フラワー・ユニオンへ移行

ニューエスト・モデルの1992年のアルバム『ユニバーサル・インベーダー』はオリコンで10位になったじゃないですか。コマーシャルなものに背を向けていたのに、あんなに人気が出たのはなぜだと思っていましたか?

ニューエスト・モデルのライブはほかにまったくない濃密な世界を作ってたと思う。ただ、CDが売れたこと自体はもちろんうれしかったけど、当時はあんまり関心がなかったのも事実やね。新しい音楽的出会いで頭がいっぱいで、バンドの成長にしか興味がなかった。バーナード・パーディ的なドラムパターンの曲をやりたくて「ソウル・フラワー・クリーク」を作って、必死に練習したり…そんなことばっかりが頭にあった。勘違いも含めて、客が増えるのは当然やろうと思ってたしね。ヒデ坊も同じ考え方やから、揺らぎがまったくなくて「どうする?」みたいな感じが全然ない(笑)。「次は民謡! 日本のパンクバンドにここまで踏み込んだのはいないぞ!」って…ずっとそういう感じやったね。

ニューエスト・モデルは、メスカリン・ドライヴと一緒に1993年にキューン・ソニーへ移籍しますが、2バンドが解散して合体する形で、ソウル・フラワー・ユニオンになります。

「海行かば 山行かば 踊るかばね」「満月の夕」(1996年の『エレクトロ・アジール・バップ』に収録)ができて、世界中にない新しいロックミュージックが生まれた達成感みたいなものがあった。それはニューエスト・モデルの頃のコンセプトの、いわば終着点でもあった。ソウル・フラワー・ユニオンというジャンル、中川敬というジャンルができたなと思うまで、1986年から10年かかったね。若い頃、あまりにロックが好きすぎて、とにかく世界にないロックを作りたかったんよね。

ソウル・フラワー・ユニオン

8月にはトリビュート『ソウル・フラワー・ユニオン&ニューエスト・モデル2016トリビュート』もリリースされる。

「やれ」と言われても、嫌なことは一度もやったことがない。約100年のレコード産業史のなかでも珍しい例じゃないかな。幸せなことやね。

マネージメントについて

今の事務所であるブレスト音楽出版に移籍したきっかけは何だったんですか?

山口洋(HEATWAVE)が「うちの社長、男気あるよ」って小林(隆史)さんを紹介してくれた。

ブレスト音楽出版に移籍して変わったところはありましたか?

一緒にライブの組み方から考え始めた。それまでは「とにかくライブがやりたい」というだけで、事務所にブッキングは任せてたから。いちから、一緒に運営方法を考えることから始めたね。

事務所と一緒に戦略を考えるようなことはないんですか?

そういうことを言われたことはいっさいないんよね。「興味ないんじゃないの?」っていうぐらい何も強要されない(笑)。信頼関係やね。ずっといい環境を作ってもらってると思う。

忘れられないのは、東日本大震災の2週間後、2011年3月26日にソウル・フラワー・ユニオンの“闇鍋音楽祭”が渋谷O-WESTであったときのことです。当時は自粛ムードが蔓延していたけれど、事務所が言ったことは「2〜3時間であれ、ライブのためにお客さんを家族と離していいのか」ということだけだったと、終演後に中川さんから聞きました。

(福島第一原子力発電所の)4号機が恐かったんよ。本当にあの3月は、ライブでお客さんが家族と離れている時間に何かあったら、とか考えてた。あのときの“闇鍋音楽祭”は、先に大阪でやって(2011年3月20〜21日)、小林さんとは「東京は直前まで中止も選択肢に入れて、メンバーは会場に行くから、中止になったらお客さんと座談会的なことでもしよう」と電話で話してた。結局ライブはやったけど、東京は当日までどうなるかわからんかったからね。

ブレスト音楽出版に来て良かったことはほかにありますか?

嫌なことがないし、理解してくれてるし、ええ感じにやらせてもらってる。だって、俺。こんなんやで(笑)? 業界の人間に「やれ」と言われても、嫌なことは一度もやったことがない。約100年のレコード産業史のなかでも珍しい例じゃないかな。幸せなことやね。

今後、ブレスト音楽出版とやっていきたいことはありますか?

そうやなぁ、ソウル・フラワー・ユニオンを「ええバンドやから、ブレスト音楽出版、そろそろ本気で売ってみない?」っていうところかな。そろそろブレイク(笑)。相当な遅咲き(笑)。

若きバンドたちへ

最後に、今からプロのアーティストを目指す若者にマネージメント選びのアドバイスをください。

自分でやれることは自分でやれ(笑)! でも、「その道のプロ」はいるから、ミュージシャンが全部やらんほうがええとも思う。ここ数年、ソロで全国をまわってるけど、初期ニューエスト・モデルと同じで、ソロはブッキングも全部自分でしてるんよ。本当に大変な仕事やと思うね。しょっちゅう「(ソロの)マネージャー欲しい!」って思うし(笑)。でも、新たなことをしてる高揚感もあって。ソロは自分でブッキングをして、スタッフなしで1人で全国をまわってるんよね。まあ、この世界は金でもめることが多いから、大事なのは人柄と誠実さやな。この30年、バンド周りのスタッフで、問題を起こしていなくなった人間もたくさんおるし(笑)。バンドメンバーを探すのと同じで、いいスタッフとなかなか出会えなくても、面白い音楽をやってたらいつか出会えるよ。本当、「出会い」がすべてやね。

PROFILE

1966年3月29日生まれ。兵庫県出身。1985年にニューエスト・モデルを結成。1993年に盟友メスカリン・ドライブと同時解散のうえ統合し、ソウル・フラワー・ユニオンを結成。日本の民謡などをロック、ソウル、トラッドなどと融合させ、よりアーシーな音楽性を発揮する。1995年には阪神・淡路大震災を機に別ユニット「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」を始動、被災地への出前慰問ライブをチンドンスタイルなどで行う(そうした活動はその後も続いている)。また、震災1ヶ月後に書き下ろした「満月の夕」を1995年10月にリリース、この曲はその後、多くのアーティストにカバーもされ、スタンダードナンバーとなる。今年7月6日にはニューエスト・モデル結成30周年を記念したベストアルバムをリリース。現在はそれを記念した中川敬の弾き語りワンマンソロライブツアーを行っている。

http://www.breast.co.jp/soulflower/

RELEASE INFORMATION

best album
『ザ・ベスト・オブ・ニューエスト・モデル 1986〜1993』

BMtunes/XBCD-1048〜1049/発売中

tribute album
『ソウル・フラワー・ユニオン&ニューエスト・モデル 2016 トリビュート』

CROWN STONES/CRCP-40473/8月3日発売

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