音楽未来

2016.03.09

INTERVIEW

岡村靖幸

vol.30 岡村靖幸 -マネージメントを語る-

「どういう人と一緒に仕事ができて、助けてもらうか。結局は人なんです。」今年1月、実に11年半振りのオリジナルアルバム『幸福』をリリースした岡村靖幸。今さら説明の必要もないだろうが、熱狂的ファンはもちろん、たくさんのプロアーティストからリスペクトされている、まさにアーティスツアーティスツなシンガーソングライターだ。ここではその岡村靖幸に、これまでの活動を振り返っていただきながら、マネージメントについて語っていただいた。

text:柴 那典

やっぱり岡村靖幸という人は天才だ。11年半振りにリリースされたニューアルバム『幸福』を聴いて、そう痛感した人は多いのではないだろうか。年下世代のアーティストやミュージシャンからも信奉を集め、マンガ家や映画監督など各ジャンルのクリエイターからも愛され続けている岡村靖幸。50才となる今も若いファンを増やしている。その魅力は何といっても、サウンドの持つ圧倒的なグルーヴ感、狂おしさや愛しさを鋭く射抜く歌詞の言葉、類いまれなるライブパフォーマンスなど、様々な面において真似のできない唯一無二の存在である、ということだろう。今年でソロデビュー30周年となる岡村靖幸に、本誌ならではの切り口でキャリアを振り返ってもらった。

特にエピックソニーのアーティストは北海道から売れるようなことが多かった。地方の営業所の人もそれを誇りにしていた。そういう時代でしたね。

「作曲家岡村靖幸」の誕生

岡村靖幸さんは19才で作曲家としてデビューしています。どんな出会いから音楽人生が始まったんでしょうか?

当時は今と違ってデビューへの架け橋がそんなになくて。ポプコン(ヤマハポピュラーソングコンテスト)とイーストウエストくらいで、レコード会社が大々的にオーディションすることはなかったんです。ただ、雑誌を見るとディレクターの人たちの名前と電話番号が書いてあって、そこに応募してほしいと書かれていて。そこに電話してデモテープを聴いてもらったのが最初ですね。

地方の高校生がいきなりレコード会社に電話したんですね。そしてデモテープを送った。

いや、送ったんじゃなくて、直接会いに行ったんです。電話をしたら「◯時に来てくれ」と言われて、エピックソニーに行ってテープを渡して、その場で聴いてもらって感想を言ってもらって。その後何回かやり取りをしているうちに、プロの仕事をやるようになりました。

岡村さんはまず作曲家としてキャリアをスタートさせているわけですが、そこを目指した意識はあったんでしょうか?

なかったですね。まずプロになるということだけを考えてました。そうなるために、作曲家もやりましたし、アレンジャーもやっていった。そういうことをやっているうちにデビューの話が来た、という形でしたね。

高校を卒業したばかりで、周りのスタッフも全員年上でありながら、作曲家という立場になるというのは、かなり異例なことだったんじゃないですか?

僕がデビューする前後は、松田聖子さんも全盛の頃でしたし、まだ歌謡曲が元気だったんですよ。そういう時代だから、作詞家や作曲家やアレンジャーの仕事が今よりもたくさんあったんですね。そういったタイミングで僕が音楽業界に入れたことはラッキーだったのかもしれません。

そのときはどういう所属だったんですか?

作曲家のときは、まずは音楽出版社が専属契約したいと言ってきたんですね。そこと専属契約しているうちに、レコード会社のつながりからいろんな人に曲を書くようになった形でした。

80年代のエピックソニーは非常に勢いもありましたし、独特の文化があったと思います。どんな雰囲気でしたか?

ほかのレコード会社とは違うフレッシュなアーティストが多かった。スタッフもみんな若かったし“これから!”という感じの熱気はありましたね。

日本武道館でライブデビュー

デビューしてソロミュージシャンとして活動されるようになって、環境はどういうふうに変わりましたか?

作曲家というのは、自分のエゴを出す仕事ではないんです。あくまでニーズがあって作る。この子のイメージに合ったこんな曲を作ってほしいというオファーに応える仕事なんですね。それとソロはまったく違う。ソロとしてのデビューアルバム(『yellow』1987年)は、需要に応えるのではなくて、自分というものをいかに出すかということなので、似ているようで全然違う作業でしたね。特に大きかったのは、歌詞を書かなくちゃいけないということ。

作詞をするようになったのはそこからだったんですね。

そうですね。作詞については、自分にすごく才能があるとも思っていなかったので、自分が尊敬している作詞家に頼んでデビューしたいと思っていたんです。でも、プロデューサーの人に「そんな考えじゃダメだよ」と叱咤された。たとえばどんな本を読めばいいとか、いろんなアドバイスもしてもらいましたし、そこから訓練していった感じです。

その期間、周囲のスタッフに支えてもらったと思えるような関係はありましたか?

今にして思うと、ものすごく支えてもらったと思います。まだ若かったし、自分がやることに邁進するのに精一杯だったんで、そういうありがたみはわからなかったですけれどね。僕、デビューライブが武道館なんですよ。

1986年の“TBS開局35周年記念・アニバーサリーロックフェスティバル”ですね。

そういうものをセッティングしてもらったわけです。あとは、エピックソニーというレコード会社が当時ビデオコンサートというものに力を入れていて。まだプロモーションビデオがテレビで流れる前だったので、ビデオをいろんな場所に流しにいくわけです。そんな時代でした。

80年代後半?ソロ初期

デビューされてから数年間は非常にハイペースにリリースを重ねています。その時期を振り返っていただくと、たとえばプロモーション活動などはどんな感じでしたか?

昔は、今と違って宣伝活動をする期間がすごくあったんです。大きかったのは、地方に力を入れていたこと。全国各地にレコードショップのカリスマ店員のような人がいて、たとえば北海道だけでレコードが売れたり、熊本だけで東京の何倍も売れたりすることがあったんです。そこから全国に広がって、レコードが売れ始めたりコンサートに人が入り始めたりすることも多かった。だから地方のラジオに力を入れてレギュラーの番組をやるようなことも多かったです。特にエピックソニーのアーティストは北海道から売れるようなことが多かった。レコード会社の地方の営業所の人もそれを誇りにしていた。そういう時代でしたね。

その頃はプロダクションには所属していましたか?

していました。ハートランドという事務所です。その頃から、新しい世代のロックアーティストが所属する事務所が増えたように思います。1987年に“BEATCHILD”というイベントがあったんですけれど、それに出演したのは、そういったプロダクションに所属するアーティストがメインでした。

そこの所属アーティストとの横のつながりみたいなものはありましたか?

ありました。

歌謡曲とロックバンドやシンガーソングライターの端境期のような時代だったんですね。

そうですね。正確に言うと、歌謡曲っぽい制作工程をとったロックアーティストもいましたし、いっぽうで作詞作曲を全部自分で手掛けるアーティストもいました。

そういったなかで、岡村さんは、作詞も作曲もアレンジもすべて1人で手掛ける手法で音楽を作るようになっていきます。

だんだんそうなっていきましたね。ファーストアルバムにはスタジオミュージシャンも入っていますし、作詞家も入ってます。でも、少しずつ自分で全部やるようになったんですね。成長していったというのもあるでしょうし、人に依存せずに自分でやろうと思っていったんです。

岡村さんは、松本隆さんのような歌謡曲の時代を支えた作り手に対するリスペクトもお持ちだと思うんですけど、そういった方々から岡村さんはどういった影響を受けましたか?

僕はもろに影響を受けていますね。もちろん洋楽もたくさん聴いていましたけど、『ザ・ベストテン』や『夜のヒットスタジオ』もかじりついて観ていました。華やかこのうえない時代だったんです。松本隆さんもそうだし、作曲家の方にも、アレンジャーにも大きな影響を受けています。いろんなところで話してますけど、僕は松田聖子さんの音楽がすごい好きだったんです。

岡村靖幸

2011年より現マネージメント体制で活動を本格的に再開。ツアーも年2回コンスタントに行われるようになり、多数のフェスに出演したりと、さらにファンに楽しんでもらう環境に。

好きなだけ時間をかけて、いいものを作っていい環境だったんです。今から考えると信じられないくらい甘やかしてくれていました。

90年代?音楽バブル期

1990年に『家庭教師』をリリースされたあとは、しばらく作品の発表は途絶えますが、そのあたりに何かターニングポイントのようなものはあったのでしょうか?

何かのきっかけがあったわけではなく、ただ甘えさせてもらっていたんですね。好きなだけ時間をかけて、いいものを作っていい環境だったんです。普通のスタジオを借りて、そこで数年間作り続けているわけですから。ものすごいお金がかかっていると思います。

そのいっぽうで、ほかのアーティストへの楽曲提供やプロデュースが増えていきました。それはどんな感じでしたか?

その頃のプロデュースとか作曲は、以前の職業作曲家やアレンジャーのときとは違ったリクエストが多かったですね。「岡村靖幸らしいものにしてください」と言われることが増えました。

90年代後半の頃は、ご自身のソロミュージシャンのキャリアとして、どういった未来を思い描いていましたか?

いや、何も思い描いてなかったです。ただ、今から考えると信じられないくらい甘やかしてくれていました。

現在のマネージメント体制

現在はV4 Inc.の近藤雅信さんがマネージメントを手掛けています。近藤さんと出会ったきっかけは?

2003年に“ROCK IN JAPAN FESTIVAL”に出演したときに、いくつかのレコード会社が手をあげてくれたんですが、そこからユニバーサルに決めたんです。そのときですね。

2004年に『Me-imi』を出されたときですね。当時はデフジャムというレーベルでした。

そうですね。当時は近藤さんはユニバーサルにいて、レコード会社のアーティスト担当という関係でした。

今の体制で活動を再開されたのは2011年の頃からですね。そこからこの数年をどう振り返ってらっしゃいますか?

2010年前後に『モテキ』というドラマと映画があって、そこで曲をフィーチュアしてくれたことで、若い子が知る機会があったんです。そこから2011年の“SWEET LOVE SHOWER”という夏フェスにトリで呼ばれて、ちょうどその頃に『エチケット』という2枚のセルフカバーを出しました。そこから4?5年は、年に2回ツアーをやったり、いろんな活動をしてきました。

実際にライブをやるなかで、お客さんからのフィードバックで得るものは大きかったですか?

ありましたね。モチベーションにもなるし、そういうことも大きかった気がします。何万人もいるわけですから、そのなかには全然ファンじゃない人もたくさんいますしね。そういうところでコンスタントに活動するというのは、いろんな意味で、とても鍛えられるんです。今の時代はいろんなフェスがありますからね。ラウドロックのフェスもあれば、アイドルのファンが前のほうを独占しているようなフェスもある。いろんな思いをしますけれど、新鮮ですね。いい場所だと思います。

岡村靖幸

昨年は木津茂里とのコラボシングル「東京音頭-TOKYO RHYTHM」や、映画『みんな!エスパーだよ!』主題歌にもなったシングル「ラブメッセージ」をリリースし、全国ツアーも2回行われた。

マネージャーに必要なものとは?

そういうなかで、いよいよ新作アルバムを作ろうということになっていきました。そこはどういうきっかけがあったんでしょうか?

制作は、基本的にずっと毎日のようにやっているんです。自分の曲をやったり、人のプロデュースをやったり。定期的にいろいろなことをやっている。で、何をいつリリースするとか、コンサートをいつやるかに関しては、僕はいっさいタッチしていないんです。全部近藤さんが考えている。

そうなんですね。

シングルやアルバムをいつ出すか、ツアーをどのくらいの規模でやるのか、そういうところは僕は考えない。作ることだけで精一杯。そういうことは得意な人が考えるべきだし、才能のある人がやるべき。もし自分にその才能があるなら自分で考えますけど、全然あるとは思わないので。

マネージメントに戦略も含めて任せることで、より創作に専念できる。

完全に任せていますね。もちろんそれによって作ることに専念できるのもそうですけれど、才能がある人だから任せられるんです。やはり結局は人なんです。どういう人と一緒に仕事ができて、どういう人に助けてもらうかというところが一番大事だった。

かつては岡村さん自身がそこも全部自分でやろうと思った時期もありました?

以前はそのあたりがよくわからなかったんですね。スタッフの人たちがどういう人なのかわからなかったし、自分に対する愛情や敬意もわからなかった。そこで疑心暗鬼になって、自分でイニシアティブをとっていた頃もありました。

岡村さんは、アーティストから見てマネージャーに必要なものって何だと思いますか?

才能ですね。近藤さんはよく「俺には見えてるんだ」って言うんです。すごいでしょ? 見えてるんだったら、それはもうお願いしたほうがいいですよね。もちろん人間なので相性もあると思いますけど、基本は才能が大事だと思います。

PROFILE

1965年8月14日、兵庫県神戸市生まれ。19才で作曲家デビューし、渡辺美里、吉川晃司、鈴木雅之らに楽曲を提供。1986年にシングルa90年代は楽曲提供やプロデュースを中心に活動するが、2003年に“ROCK IN JAPAN FESTIVAL”でライブ活動を再開。2004年に9年振りのオリジナルアルバム『Me-imi』をリリース。2011年には“SWEET LOVE SHOWER”にも1日目のトリとして出演し、2枚のリアレンジアルバム『エチケット(ピンクジャケット)』『エチケット(パープルジャケット)』もリリース。今年1月には、11年半振りとなる7枚目のオリジナルアルバム『幸福』をリリースした。4月9日(土)Zepp Fukuokaを皮切りにツアーがスタート、5月27日(金)28日(土)には中野サンプラザ2デイズも。

http://okamurayasuyuki.info/

RELEASE INFORMATION

7th album『幸福』